たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

4月の学級びらき 子どもたちの期待感を活かしつつ、楽しい活動を通して信頼関係を

こんばんは。

今週から3学期が始まる学校も多いことと思います。

子どもも大人もゆったりとした休みに後ろ髪をひかれる思いなのは同じでしょう。

ゆるやかにスタートを切りつつ、来週からが本番だと思って暖機運転でいきましょう。

 

子どもたちにとっていよいよ進級が間近に近づいてくる時期です。

私の3学期のテーマは、「自分たちで」と「ワクワク」です。

「もうすぐ〇年生なんだからこれくらいやりなさい」とプレッシャーをかけるのではなく、次の学年に期待感をもたせていきたいと思います。

 

さて、前回は「自治の力」をつけるための見通しの重要性について書きました。

集団づくりの見通しを私自身が整理するためにも、いろいろと書いていきたいと思います。

今回は4月の出会いについてです。

 

 

 

 

新年度のスタート、私が大事にするのは「期待感」と「よそよそしさ」

 

子どもたちの期待エネルギーは計り知れないパワーを秘めている

 

4月。子どもにとっても教師にとっても、出会いにワクワク、ドキドキする時期ですね。

 

子どもたちは

「新しく担任になる先生はどんな先生だろう」

「楽しい一年になるといいなあ」

「勉強が難しくなって心配だなあ」

「クラス替えは誰と一緒だろうか、あの子が一緒がいいな、あの子は嫌だな」

と、新年度のスタートを期待半分、不安半分で迎えることと思います。

 

期待も不安もあるからこそ、4月の最初の時期は子どもたちに指導が入りやすいのです。

新しい出会いは生まれ変わるチャンスでもありますから、前学年のやんちゃな引き継ぎとは打って変わって利口な顔をして座っている子もいます(あくまで私の経験ですが)。

それらの行動をきちんと認め、「うれしいよ、ありがとう」と価値づけていくと、どんどんいい方向へ変わっていきます。

手のかかる子として引き継ぎをされた子も、この時期は猫をかぶっていることが多いので、価値づけをすることはそう難しくはありません。

その価値づけの積み重ねで、一気に学級のリーダーとして生まれ変わっていったジャイアン的な子もいました。

 

それくらい、子どもたちはいい方向に変わりたがっているし、変わる自分を見ていてもらいたいものです。その期待のエネルギーを活かさない手はありません。

 

 

最初からやりすぎると離れていく 互いに「知らない」のだから

 

そんなスタートの時期に、教師がすぐに感情的に怒鳴りつけ、教師のものさしを押し付ける指導を展開したら、子どもたちはどう思うでしょう。

進級に際してプレッシャーをかける指導ばかりしたら、子どもたちはどう思うでしょう。

 

まだ関係性ができていないうちから「力の指導」に頼ろうとすると、必ず反動が来ます。

 

だからこそ、スタートに当たっては子どもたちの世界にずかずかと土足で入り込むようなことはせず、「よそよそしさ」を上手に使って子どもたちの姿を認めていきます。

 

「先生のことをよく知らないにもかかわらずあいさつしてくれてうれしいよ」

「前の学年ではどうやってたか、誰か教えてくれる?」

「相手のことを考えるからこそ、そういう言い方をしているんだよね。やさしい人間だなあ」

 

4月に子どもたちをたくさん認めて関係性をつくろうというのは大前提です。

この「認める」という行為を通してどんな種をまき、ゆくゆくどんな芽が出るようにしていくかが大切になっていきます。

 

 

 

 

 

教師と子どもの信頼関係をつくるには「楽しい活動」を

 

 

・・・そりゃそうですよね。

何を当たり前のことを、と思う方がいらっしゃるのも無理はありません。

休み時間には必ず外に出て遊ぶ。朝の会や帰りの会で子どもたちを笑顔にする。

そういったことの積み重ねが「信頼関係」に結びつきます。

 

 

「約束を守る」「時間を守る」「うそをつかない」といった文字通りの信頼関係ももちろん大切です。ただ、これらは効果が見えにくいのです。しかも、子どもたちに徐々に浸透していくものなので、時間がかかります。

 

 

子どもたちは思っている以上に私たちの本質を見抜くのが上手ですし、早いです。

だからこそ、4月のこの時期は授業準備は極力済ませておいて、休み時間は子どもたちと外に出て、楽しむ体験を共有します。

 

 

「この先生はおれたちと遊んでくれる先生だ!」

「この先生はクイズとかゲームとかしてくれる先生だ!」

「この先生と何かやるとなんだか友達と仲良くなれる!」

ということを、理屈ではなく感情に訴えます。

 

 

一回でも多く子どもたちと笑うのを目標に、4月は過ごします。

 

ただ、それらの楽しい活動にはもっと重要な目的があります。それはまた次回。

 

 

 

 

自治の力を身につける集団へ ~いつ、どんな活動を取り入れるか見通しをもとう~

こんばんは。

2学期が終わり、このブログをお読みのみなさんも一息ついていることと思います。

本当にお疲れさまでした。来学期に向けてゆったりと休み、またやってくるタフな毎日に備えましょう。

 

私は依然作ったDIYの棚を直したり、コンロ周りの油汚れと格闘したりする年の瀬を過ごしています。

換気扇フィルターをつけていても、金属のあの板は結構べとべとになってしまいますよね。今年は初めて重曹につけおきの方法を試してみましたが、すごい効果でした。

初めて洗濯槽クリーナーをしたときの興奮を今でも覚えていますが、それに似た感覚です。

 

 

 

さて、私のこの冬休みの目標は集団づくりを中心にいろいろと「学び直す」です。

アウトプットを通して来年度に向けて自分も備えていけるようにしたいと思います。

 

 

 

今回からしばらくは

 

1年を通して自治に向けていつ、どのように活動を取り入れていくか

 

について書きたいと思います。

 

 

 

 

 

「知識」ではなく、「体験」で自治の力を育てよう

 

 

そのためには、子どもたちに知識として自治を教え込むのではなく、活動を通して体験的に獲得していくことが不可欠です。目の前の新しい壁に対して、子どもたちが自分たちで体験的に獲得した自治の力を

「こうしたらどうかな」「これもやってみようよ」「ここに気をつけてね」

と、子ども同士が関わり合いながら、応用して課題を解決することが大事になってくるからです。

 

 

 

そうした「自治の力」を育てようと考えていても、思い付きのような場当たり的な取り組みの設定ではうまくいきません。

子どもたちはその場は楽しいかもしれませんが、成長を実感したり、自分たちがやったことの価値を確かめられず、結局元通りになってしまうことも多々あります。

私自身も、そうした場当たり的な指導になってしまい、後手を踏むことが多々ありました(今でもありますが)。

 

 

 

子どもたちが自治の力を手にするためには、「徐々に私たち教師から手渡していく」という見通しが必要です。

自治的な取り組みは、3学期になって突然「じゃあこの取り組み、全部任せるからやってみて」と放り投げるものではありませんから。

 

 

 

 

だからこそ学級集団づくりを意識し、子どもたちが自立し、自治の力を手にするように学級経営を行うとき、「いつの時期に、どんな活動を取り入れていくか」の見通しをもつことは重要です。

 

 

 

しばらくは、ともはる先生@tomo_haruuu の

特別支援教育の知識で全員を育てる!ユニバーサルデザイン学級への6原則』

『「いじめのない学級」と「わかる授業」を創る指導の実践と理論』

で学んだことも少しずつ取り入れながら書いていきたいと思います。

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ユニバーサルデザイン学級への6原則

https://www.amazon.co.jp/特別支援教育の知識で全員を育てる%EF%BC%81-ユニバーサルデザイン学級への%EF%BC%96原則-前田智行/dp/B07MKPVT1C/ref=pd_sbs_14_2/355-9433870-1561726?_encoding=UTF8&pd_rd_i=B07MKPVT1C&pd_rd_r=aec0a157-57b8-4065-9c61-9585d00e0efc&pd_rd_w=z9gVt&pd_rd_wg=m8CH7&pf_rd_p=1585d594-d9d0-474b-8a4e-69eca1566911&pf_rd_r=QXPDKGYC42912M2DWZ98&psc=1&refRID=QXPDKGYC42912M2DWZ98

 

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「いじめのない学級」と「わかる授業」を創る指導の実践と理論

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4990955196/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

 

 

 

次回からしばらくシリーズ化して集団づくりの見通しと取り入れていく活動について書いていきたいと思います。 

もしよろしければ、おつきあいください。

 

それではまた。

「レポートを書く」「実践分析」が成長のチャンスを生み出すきっかけだと思っているという話。

とある民間教育団体の学習会のレポート分析の機会を頂いたので(よく回ってきます)、レポートを書いています。

 

 

 

 

わたしはこうした民間教育団体の学習会は、教育委員会の研修のような「上意下達型」の「発信」ではなく、地に足をつけた(ある意味では地を這う)草の根を分けた「実践分析」の場だと考えています。

 

実践分析を通して得られた視点は自分の学級にも活かすことができますし、自分が子どもたちと接するスタンスや自分の中に潜む思想のようなものを再確認できます。

 

他人のレポートですらそうした豊かな学びのきっかけになるのですから、自分のレポートとなればなおさら深い学びが約束されるわけです。

 

恥ずかしさも当然ありますが、それ以上にレポートを書くメリットは大きいです。

 

 

 

 

 

 

さて、今回チャレンジしているのは、できるだけ子どもたちが話した言葉や私の発した言葉を極力そのままに書くということです。(当然すべてを覚えているわけではないので、多少脚色が入ったり補完されたりしますが)

 

 

 

都合のいいことばかり書くのではなく、痛いところ、迷ったところ、困ったところも書きます。

 

「この時はこう考えてこういう対応をした」

「この時はすっかり困ってしまって、何もできなかった」

「この時はこう思っていたんだけれど、取り組みをやるにつれてこういう考えになっていった」

こうした実践者の即時的な「実践勘」が実践分析のカギになっていきます。

 

 

研究授業の協議でよくありがちな「たれれば論」に終始することなく、どういった見通しで、この先はどのような取り組みで子どもたちと「やり直し」をしていくかが実践分析の最後には見えてきます。

 

 

 

子どもたちの日ごろの生活の様子や発する言葉、その裏に潜む思想など、実践分析を通していろいろな立場から出される「読み」=「子ども理解」は、何事にも代えがたい「学び」になります。

 

おすすめはしませんが。

 

 

 

 

 

もっと早く出会いたかった・・・ ~『教師における「指導」のいろいろ』を読んで~

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今回は私のバイブルのひとつ、

 

教師におくる「指導」のいろいろ(家本芳郎)

 

を紹介します。

 

 

 

えっ、この本、最近の本じゃないの!?

 

 

荒れや無気力、指示待ちといった教育界の現状を的確に言い当てていくこの本。

なんと、初版は、1986年です。

 

 

実に30年以上も前から、「まずい指導」による子どもたちの影響は研究され、議論され、実践に活かされてきたのです。

 

 

ところが、「体罰はダメ」「怒鳴りつけるのも体罰」といった議論は深まることなく、善悪の判断によるものにとどまり、子どもたちに対する人権意識の高まりや自立への道しるべとしての「よい指導」に関わる議論はされませんでした。

 

 

「柔軟で様々な指導の引き出しがある先生になれたら」という思いでこの本を手に取りましたが、それ以上の気づきと共感を得ることができました。

 

 

 

力の教育と訣別する必要性

 

教師はその気がなくとも権力を行使して子どもと関わる存在です。

その権力や影響力を過剰に用いると、しごきや体罰になります。とうぜん、やってはいけないのですが、「よかれ」でこうした状態に近いまずい指導を展開することがあります。

 

 

 

それに対し、教師に対しても立ち向かっていけるエネルギーをもつ子は、対教師暴力や学級崩壊のリーダーとして表出します。

教師には向かっていけない子供はどうなるでしょう。そのうっぷんを他の子どもに向かって晴らします。こちらはいじめ行為として表出します。

 

 

 

では、どちらもできない子はどうなるのでしょう。

 

 

 

1つは、イライラして攻撃的になります。自主性や創造性を抑圧され、欲求不満になるからです。

2つは、暴力に屈し、暴力の支持者になります。

 

これらが合わさるとサディズムになります。集団いじめの背景にもなります。

 

 

3つは、過剰適応の子になります。教師の言うことを絶対視し、教師の顔色をうかがい、教師に怒られないようにします。

4つは、無気力になります。禁止ばかりで強く抑え込まれ、自分でものを考えられない子になります。

 

これらが合わさると指示待ち族になります。主体性がなく、自分の興味や行動すらも自分で決められない人間になります。

 

 

これらのとんでもなく濃い内容がたった十数ページのプロローグに書かれているのです。とんでもない密度です。

 

 

 

読みはじめから脳みそはフル回転を余儀なくされます。

なんせ、自分の学級のあの子やあの子やあの子やあの子が脳裏に浮かんでは、

「ぼくだって苦しい思いをしてきたんだ」

「私、傷ついてきたの」

と、悲痛な声をあげるのですから。

 

 

 

以前この本のプロローグの内容の一本槍で講座をしたことがありますが、非常に濃い学びになりました。誰にもあるあるネタすぎるのですから、当然ですね。

 

 

 

話をプロローグに戻します。

そうした指導を先生たちはどうして展開してしまうのでしょう。

それは、「指導が入らないという焦り」です。

 

 

日本の教師たちは「指導」=「注意」として捉え、その意義を問い直すことをしてこなかったようなのです。

戦前においては「教師の言うことは絶対」だったため、教師が注意をすればことが済みました。しかし、時代が進むにつれ、そうはいかなくなってきました。その結果見られるようになったのが、「注意の強化」です。

 

「注意の強化」でしか子どもにアプローチしきれなかったとしたら、どんなにつまらない教室になるでしょう。

「学校楽しいな」「明日もまた行きたいな」という教室を、用意できるとは思えません。

 

 

力の教育ではなく、人間味と義理と人情、ユーモアで子どもと関わろう

 

力の教育では子どもたちの自主性や創造性、豊かな人間性は育まれてはいかないでしょう。

そうしたまずい指導から脱却するために、この本は一つ一つ丁寧に指導の形態とその内容について解説していきます。

 

 

説得する、共感する、受容する・・・一つ一つに意味があり、子どもたちと共に立ち上がる人間味のある教師像がありありと浮かんできます。

 

 

 

また、「まずい指導からの脱出」という項もあります。

こうした指導を展開してしまってはいないか、自分の中に巣食う管理主義と戦います。

 

 

 

かくいう私も、どうしたら指導が入るかわからず、いっぱいいっぱいになりながら教壇に立った過去があります。

朝、出勤するために車に乗り込み、エンジンをかける手が重たい日々。

戻りたくない過去があります。

だからこそ、私は子どもたちの前に立つために歩みを止められないのだと思っています。

 

 

 

この本に出会えたことは奇跡であり、必然です。この先もこの本を手に取るたびに、書き込みを増やしていくことになると思います。

 

 

 

 

子どもに対する人権意識を豊かにし、互いに気持ちよく成長していくために

 

この本を読み終わって感じるのは、人権意識を大切にしながら、手立てを柔軟に組み替え、子どもたちと一緒になって豊かな関係をつくろうとすることの意義です。

 

 

子どもたちと一緒に汗かき、笑い、時に涙しながら、相手を尊重して前に進んでいくことです。そのためには手段を常に選びなおし、教師という立場にあぐらをかかず考え続けることだと思います。

 

 

 

教育実践、授業実践を磨き、専門性を高めていこうとする先生も、こうした子どもたちとの関わりは避けて通れません。

 

 

方法論、時短術、生産性アップと、昨今の教育現場のトレンドはめまぐるしく変化していますが、そうしたいろいろなテクニックの根底に流れる「不易」に今一度立ち返ってみてはどうでしょうか。

 

 

 

 

わたしからの超オススメの本です。

単発の実践から「つながる」実践へ ~子どもたちと総括をしてみよう~

 

 

 

 

「総括」って何?

 

みなさんは、大きな行事や生活目標の節目に「総括」をしていますか。

 

「総括」と言っても、

 

「先生はみなさんが運動会の取り組みをとてもよくがんばったと思います。自分の競技だけでなく、係の活動もよくやっていました。この経験をこれからの学校生活にも活かしていきましょう」

「この陸上大会の取り組みを通して、チーム〇〇小が一つになったと思います。協力して取り組んだこと、みんなが支え合ったことを忘れずに、これからもがんばっていきましょう」

 

と、「教師が子どもたちをほめるまとめの一言」ではなく(上の二つはほめられてもいませんが)、「子どもたちが自分や自分たちの取り組みを自分たちでふり返り、成果と課題を明らかにしていく話し合い」のことです。

 

なぜ総括をしなきゃいけないの?

 

学校は「やらなきゃいけないこと」がいっぱいです。

なので、教師から「運動会があります」「応援団と放送係と用具係と・・・が必要です」「役割分担をします」というように、上意下達で物事が進んでいくことが多いものです。

それは行事でも、日々の取り組みでも、ちょっとしたお楽しみ会ですら、そういうスタートのものが多いです。

 

そうした学校生活の教師発信の取り組みが多くなってくると、だんだんと子どもたちはやらされ感を感じるようになります。

「言われたことだけやっておけばいいや」

「先生の機嫌を取っておけばいいや」

「楽しければいいや」

 

それでも、やらされた活動の最後を、教師がかっこいい言葉を並べて価値づけていくと、多かれ少なかれ気分よく取り組みを終えることができます。子どもも教師も。

 

しかし、その総括が見当違いだったり、教師の自己満足だったりすると、子どもたちはあまり成長しません。成長を自覚しておらず、自分たちの課題も見えないままです。

 

「前にこう言ったでしょ!」

「前にはできたでしょ!」

という現象が起きるのです。

 

 

子どもたちが自分たちの成長を実感し、課題に対して前向きに向き合っていけるようにするために、「総括」は大変重要な意義をもっています。子どもたちが自立し、自治を手にしていくために、「総括」は必要なことだと私は考えます。

 

 

 

総括をするとどんなことが起きるの?

 

総括をすると、自分たちの学級の文化が見えてきます。

それは、「協力」「団結」「思いやり」といった、学校の中で使い古されてきた実態のない「いい感じのキラキラした言葉や概念」ではなく、「伝えたいことを考えて、心を込めて励ましの言葉を考えることができた」「準備の時にカナミさんが手伝ってくれた」といった「事実から導き出される子どもたちの現実」です。

 

逆に、「本番だったのに前でコソコソ打ち合わせをしてしまった」「せりふを考えたのに覚えるまで練習をしなかったので、メモばかり見て話してしまった」などというマイナス面も受容していきます。それも文化です。そういったマイナス面の事実をもとに、課題を見出していきます。

 

出てきた課題は次の活動でクリアできるように、目的意識の中心に置きます。

これが「つながる」実践のカギです。

 

 

総括の「お作法」3つ

①「成果」と「問題点」の事実を子どもたちから吸い上げ、受容しよう

 

子どもたちには「成果」と「問題点」について、出来事を聞きます。

何も言わずに成果を問うと、

「協力できた」

「最後まで一生懸命がんばった」

といった、一見よさそうでいい感じの言葉が並びます。

 

でも、これだと中身のない「雰囲気総括」になってしまいます(私も総括に取り組み始めたころはこんな感じでした。先輩に「これだから実践が単発で終わるんだ」とバッサリ言われた記憶がよみがえります)。

 

「協力できた」→「船をつくるときにサアヤさんがペットボトルを押さえていてくれた」

「最後まで一生懸命がんばった」→「カズくんとフミくんが当日の朝まで真剣に練習を繰り返していた」

などと、「誰が」「いつ」「どのように」といったことを中心に詳しい出来事(事実)を出してもらいます。

 

問題点も同様ですが、子どもたちは問題点ばかりに目がいきがちです。

たらればの視点よりも、「困ったこと」や「残念だったこと」という視点に立つようにし、論点を整理してあげるといいと思います。「問題点」という問い方がうまくいかないようなら、言い換えてみましょう。

 

 

②そこから「課題」を見出そう(はじめは教師、だんだんと子どもたち)

 

出てきた「成果」はみんなで盛大に喜び、「問題点」はいくつか共通点を見つけて数個の「課題」にまとめてしまいます。ここで大切なのは課題をたくさん見つけることではなく、「今の私たちにとって重要な課題は何か」を子どもたちに問うことです。

 

問題点がたとえたくさん出てきてしまったとしても、次の活動で取り組むべき課題は1個か2個です。たくさんの課題に一度に取り組むと、目的意識がブレたり、薄れたりします。

 

なので、教師がまずは課題をまとめるモデルを示し、徐々に学級の代表や班長会、有志による課題設定の場をつくり、だんだんと主体を手渡していきましょう。

 

 

 

③「成果」と「問題点」と「課題」をまとめ、掲示しよう

 

「成果」「問題点」「課題」は整理して、教室の壁や黒板の片隅に掲示します。

話し合いによって明らかになったことが「見える化」されると、後々使えます。

 

「運動会のこの時につけた力をこういう何気ない場でも使えている!すごいね!」

という前向きな言葉がけに使ったり、

「運動会で注意されたこのことをまだくり返しているよ。みんなで気をつけようって確認したのにね」

ということに使ったりします。

 

何よりも重視すべきは、

「今取り組んでいるこの活動はこの課題をクリアするためにやっているんだ」

と子どもたちが確認できることです。

みんなで話し合ってみんなで決めたことは、みんなで守ります。

決めたことにはみんなで責任を持つということを教えます。

 

 

 

最近の私の総括は・・・

 

先日、近隣の自治体の高学年が集まっての陸上大会があり、私のクラスの子たちが壮行会を企画しました。

 

 

その総括では、

「進行役が上手に進めるために必要なせりふを自分たちで考えていた」

「伝えたいことを考えて、心を込めて励ましの言葉を考えることができた」

「応援リーダーが大きな声でかけ声をかけたので、わたしたちも大きな声で応援できた」

などのよかった事実が出され、

 

「自分たちで話すことを考える力がついた」

「みんなの前で大きな声で堂々とやると他のみんなもがんばれることがわかった」

という成果がまとまりました。

 

一方で、

「応援リーダーが前に出たときにその場でコソコソ打ち合わせをしていた」

「せりふを覚えるほど練習しなかった」

「メモばかり見て前の高学年を見れなかった」

という事実が出され、

 

「コソコソ打ち合わせをしなくていいくらい練習をしよう」

「少しはメモを見てもいいけど、きちんと顔を上げて話そう」

という課題がまとまりました。

 

それらをクリアするための取り組みはまた改めて書きますが、事実から見出された課題は、次へのエネルギーとなって子どもたちをイキイキとさせていきます。

 

 

「単発の実践」「雰囲気総括」ではなく、子どもたちが実感を伴うような「総括」をしてみませんか。きっと、子どもたちが変わります。

運動会の応援練習からリーダーシップとフォロアーシップを考える

 

 

応援練習を子どもたちなりの活動にしたい。けど・・・

 

みなさんこんにちは。

 

みなさんの学校の運動会の応援練習、うまくいっていますか?

 

 

応援リーダーがいまいち応援練習を盛り上げきれない

低学年は声を出すけれど、高学年が声を出さない

リーダーばかりがんばって、あとがついて来ない

 

 

そういった課題を抱え、改善させきれずに運動会を迎えたり、結局は高学年の先生や声の大きな先生の指導によって声を出させたりする学校も多いのではないでしょうか。

 

今回は、そんな運動会の応援練習の指導を通して、高学年が「自分たちで応援の取り組みを盛り上げた!」と思えるような関係づくりを考えていきます。

 

 

 

 

 

何で応援練習がうまくいかないのか

 

それはずばり、6年生にとって「自分たちで子どもたちを動かす進め方をする機会がない」からです。 

 

 

運動会の応援団の活動は6年生が今まで経験したことのないような行事へのかかわり方を求められます。

 

 

クラブや委員会など、ただでさえ異学年と一緒の活動を進めることの難しさを感じていて、先生に入ってもらってやっと活動しているのに、運動会というだけで1~5年生まで、全ての学年を6年生が束ねて同じ活動をさせなければいけなくなります。

 

しかも、そうした経験は今までの学校生活の中にはあまりなく、全学年を一度に面倒を見るという難易度の高いことを6年生には課せられることになります。

 

 

経験的にそうした営みに身を置きやすい私たち教員は慣れていても、進級していく子どもたちに最初から「6学年を動かす」というのはハードルが高いと思いませんか?

 

発達段階だけでなく、取り組みに対する温度差もある中で活動を成功させるのは、大人でも至難の業です。

  

 

だからこそ、リーダーだけががんばる取り組みにするのではなく、リーダーを支える6年生・5年生のフォロアーシップに火をつけられるかがカギになります。

 

 

 

 

リーダーとフォロワーを育てるために、「一肌脱いだ子」を見つけよう

 

  

そうした応援練習を運営する難しさは、子どもたちにとっては最初から分かっていることではありません。

 

何がうまくいかないのか

何でうまくいかないのか

どうしたらうまくいくのか

 

を活動の前にこちらから簡単に提示するのはもったいなさすぎます。

リーダーたちにはまずやってみて、自分の目や耳、体で感じたことをもとに集団への要求を突き付けてもらいたいと思います。

 

 

 

しかし、そうした課題に取り組むための時間を設定することなく、

「個人のがんばり」=「ガンバリズム」

にのみ依存した取り組みでは、リーダーが潰れるか、応援団が冷え切るかになってしまいます。どちらが先に「やってらんねー」と言い出すか、ということです。

 

 

そうならないためには、「今までよりちょっとだけがんばってみようかな」と、自分から立ち上がる子どもたちを育てることです。つまり、リーダーを主体的に支えていこうとする「一肌脱ぐ」存在に気づかせ、「ぼくも」「わたしも」と追随する雰囲気をつくることです。

 

 

今年の運動会は、結局団長も副団長ももじもじした自己紹介でした。教室で話すような声で名前を言い、あいさつも「よろしくおねがいします」だけでした。

そんな中、6年生のいつも静かな女の子がいつもより大きな声で、反り返るようにして名前を言いました。

 

応援練習は散々たる結果で終わりましたし、反省会でも「声が出なかった」「動きがばらばらだった」といった反省は一応出ました。(じゃあどうするか、は出なかった)

 

 

その日の反省会で一言を求められたとき、その子のことを話しました。

 

「さつきさん(仮名)は応援団の中でも団長とか副団長とかではないけれど、あの自己紹介の時に『これじゃだめだ』と思ったんじゃないかな。『何とかしなきゃ』って。そのことがあの時の声の大きさに出たんだとぼくは思うんだ」

 

その時、うなずくさつきさんの横で、はっとしたような団長の顔。

 

団長や副団長よりも先に立ち上がったさつきさんは、それ以来特段目立つわけではありませんが、そのことで奮起したのは周りのリーダーたちです。次の応援練習では「まずはおれたちから声出すぞ」という団長の言葉もありました。

 

 

目立たない存在ながら、自分から声を出した事実を知り、リーダーたちはイキイキとし始めました。支えてくれる仲間、立場に関わらず前に進もうとする仲間の存在に気づけたのです。

 

リーダーは孤軍奮闘していくものというイメージを子どもたちはもっているのかもしれません。そこをみんなでやっていこうという方向で動けると、活動への満足感を感じられるようになっていきます。

 

 

 

 

役割分担を通して、「みんなのために動いた事実」を残そう

 

 

その後の応援練習も、がんばっていることはがんばっているのですが、なかなか軌道に乗ることができません。

気付けば団長の声はカッスカスです。

 

応援の身振りも、我慢ができなくなった先生が指示を出すようになってきました。

確かに団長の困り感をその場で解決してあげることが先決です。

 

が、ここで先生が前に立って子どもたちを的確に動かしたことで生まれるちょっとした空気のゆるみというか、リーダーたちのなんとも言えないような表情がもたらすものが、集団に与える影響は少なからずあるのではないかと思っています。

 

そこで活躍するのがホワイトボードです。

 

「教師が子どもたち主体の活動を止めて話した」

という事実を残さず、団長たちに指示を出すことができます。

 

これは、児童総会の議長の話す言葉を教師が唱え、議長は教師の方を見ずにそれをマイクに向かって繰り返すことに似ています。子どものせっかくの活躍の場に教師がしゃしゃり出ることで、成功体験の質が下がります。それくらい教師の言葉にはよくも悪くもパワーが働きます。

 

 

だからこそ、ホワイトボードを使って「黙って」指示を出します。

 

ただ、ホワイトボードを出す回数は徐々に減らし、最後には絶対出しません。

教師のモデルは必要ですが、そこからはだんだんと主体を手渡していきたいからです。

かといって反省会でそれをやっていくのでは少ない応援練習では大きなロスになります。だからこそ即実践できるヒントをホワイトボードで「黙って」示します。

 

 

「2つほめて、次の課題1つ」

「こだわりポイントを1つ伝えよう」

 

といった指示を最初は出していたのですが、空気が変わったのは

 

「副団長がかけ声、団長はほめる」

 

という指示でした。最初は前に立つ応援団の一人でしかなかった二人が、突然副団長としてイキイキし始めたのです。

そして、その影響は他の団員にも派生し、次の応援練習では4年生の団員が整列する組団の後ろから声でサポートをし、チアリーダーたちは振り付けを1年生の間に入って手本を示すようになりました。恥ずかしがりの女の子は歌詞を持ちました。

 

そうしたところから組団の声はよく出るようになりました。特に、団長以外の応援団が声を出すようになりました。

「団長だけががんばる応援練習」から、「団員みんなががんばる応援練習」に名実ともになりました。役割分担をすることで、活動をした事実が残り、それが自信になっていきました。

 

 

 

 

教師のアプローチ:「行為そのもの」ではなく、「思想」を取り上げて認めていこう

 

応援団の反省会の時に、ざっくりと高学年の先生が「気づいたことはありませんか?」と子どもたちに投げかけていきます。(私だったら子どもたちにペアトークをさっとさせて、成果と問題点を洗い出したいなぁ・・・)

 

 

そんな中で出るのは、

「今日は前より声が出ていた」

「手が伸びなかった」

といったわかりやすい事項です。

 

そこからもう一歩踏み込みたいところですが、応援練習があるのは朝自習の短い時間か、全校が集まるロング昼休み(うちの学校では朝の自学級の学習時間の確保のために、児童集会や委員会発表、全校道徳をするための「ロング昼休み」と呼ばれる時間があります。掃除は週3回です)で授業が次に控えているため、ゆっくりと反省会をしている時間はありません。

 

だからこそ、短い反省会の効果を倍増させ、次回の応援練習にその成果を活かす道を探っていく必要があります。

 

 

 

そこで私が取り組んでいるのが、「行為を通して思想を認める」です。

 

前にさつきさんの例を出しましたが、大きな声を出したことに対して「さつきさんは『何とかしなきゃ』と思ったんじゃないか、だから大きな声で自己紹介したのだと思う」という認め方をしました。

 

 

 

ここで有効なのは、「本人も気づいていないようなことでもこちら側の解釈を通して認めていく」です。

もしかしたら拡大解釈かもしれないようなことも、思想については「こちら=受け手側はそう思った。だからすごいと思ってる」と伝えられます。

 

 

 

そして、この「思想を認める」の一番のポイントは、子どもたちが「あれもやってみよう」「これもやってみよう」と考え、行動していくことです。

 

 

行為そのものを認めていくと、その行為はするようになりますが、なかなか次に派生しません。

腕を伸ばすことをほめれば、腕を伸ばすことはするようになりますが、ひざを曲げることはしてくれません。

腕の高さをほめれば、腕の高さに気をつけるようになりますが、その時の足の幅については気をつけてくれません。

 

 

 

そこで、行為を通して思想を認めていきます。

「めいさんはポンポンを動かすキレがいいんだけど、これは遠くから見たときによくるようにしているんだと思うんだ」

「かんたさんは1年生の前で鏡になる役割だけど、いつもより大きめに扇子を動かしているよね。1年生が動かす手を分かりやすくしようとしてくれているんでしょう」

 

 

そうすると、他の似た立場の子たちがそれをまねするとともに、「何かないか」と想像力をはたらかせるようになります。その想像力をはたらかせようとする子どもたちを育てることこそが、子どもたち主体を崩さず、指導を展開しようとする教師の役割です。

 

 

想像力をはたらかせるようになると、今度は子どもたちが自分たちから集団にベクトルを向けていくようになります。そうしたら、自然とフォロアーシップは育っていきます。リーダーたちはだんだんと前向きになっていくフォロアーたちを見て、さらにうれしく思い、前向きにチャレンジしていくことになるでしょう。

 

 

 

まずはリーダーを変える。フォロアーを後から育て、活動後には総括

 

まずはリーダーが変わっていくことが先決ではありますが、リーダーたちが変わっていく過程をフォロアーに広げていくと、フォロアーたちはちょっと活動のしかたを前向きにシフトさせるようになります。

 

子どもたちが一人で立ち上がるのは難しいですが、「ぼくも」「わたしも」と立ち上がるような集団を教師はつくっていきます。しかも、自分の手柄としてではなく、みんなのがんばり、リーダーの手柄でありフォロアーの手柄であると。

 

 

行事に限らず、最後には総括をします。

総括って何?という方のために、ざっくりと話すと、子どもたちから取り組み全体の成果や問題点を事実として出してもらい、それらを通して運動会で身につけた力や思想、今後の課題を明らかにしていくことです。

 

 

今の学校は行事を終えても、情緒的な連帯をピックアップするような風潮があります。

「がんばったね」

「たのしかったね」

いわゆる「達成感」が取り組みのゴールとして設定されているような感じです。

 

 

でも、運動会の取り組みも大きな目で見れば、〇年生の道半ばです。

「俺たちの冒険は、まだまだ終わらねぇ!」というやつです。

 

 

 

総括では、リーダーからはフォロアーの支えでありがたかったポイント、フォロアーからはリーダーのがんばりが見えたポイントを事実として吸い上げ、そうした行為がお互いを助け、活動をよりよいものにしていくという価値に気づいてもらえるようにします。

 

 

 

 

 

おわりに 運動会の応援練習は子どもに自治を手渡すいい機会

 

 

と、ここまで長々と書いてきましたが、最終的に考えたいのは「運動会を活用して子どもたちの何を育てるか」ということです。

 

 

運動会を成功させるのは運動会のためではなく、今後子どもたちがどんなことを自分たちで成し遂げられるように、有効な体験を積むことではないでしょうか。

 

 

運動会は内容を教師が決め、取り組ませるという側面が強い行事ですが、その中でも子どもたちに自治を手渡すための種をまき、目が出るようにしていきます。

 

それは、これからの行事や取り組みが、だんだんと子どもたちによって自己評価やタスク管理、役割分担などが進められていくようにしていくためです。

 

私の指導方針の中で一つのゴールは、6年生を送る会の時に子どもたちがどんな自治的な取り組みを展開できるかだと思っています。

 

 

みなさんの学級や学年、学校の運動会が、教師の満足感や保護者への見栄えに終始することなく、子どもたちの自治に関わる収穫のあるものになることをお祈りして、ここで終わりにします。

 

最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

自己肯定感の低い子が自分に希望を見出していくために、教室で私たちが取り組む3つのこと

みなさんこんばんは。

お盆休みはゆっくり休めたでしょうか。

 

さて、早いところでは来週から新学期が始まる自治体もありますね。

世間では9月1日の自殺が一番多いということも言われるようになってきています。

 

 

楽しかった夏休みに後ろ髪をひかれながらも、思い出と作品と宿題を引っ提げて子どもたちは学校に笑顔で登校、担任の「夏休みは楽しかったですか?」の問いに「はーい!!」と答え、宿題提出はパーフェクトで、希望いっぱいの楽しい2学期のはじまりはじまり・・・

 

 

 

そんなわけないですよね。

 

 

正確には、

そんな子ばかりではないですよね。

 

 

画一的な見方ではなく、前のめりの自分を少し落ち着けて、子どもたちの姿に合わせた指導方針をもつ必要があります。

 

 

 

 

2学期は行事が多く、その準備期間も子どもたちの集団づくりのチャンスです。

 

 

子どもたちにとって、

 

安心できる心の居場所としての学級・学校

自立に向けて成長する実感をもてる学級・学校

 

を目指して、活動を通して子どもたちと共に価値を見つけていきましょう。

 

 

 

 

自己肯定感の低い子、いませんか?

 

さて、今回のテーマは「自己肯定感」です。

 

 

自己肯定感の低い子、学級にいませんか?

 

 

「どーせオレなんて、何やってもうまくいかないし」と言って、授業参加をあきらめる子。

話し合いで発言もできず、まるで空気のようにそこに座っているだけになってしまう子。

やる気ばかりが先行して、どうしたらいいかがわからず結果的に口だけの子。

 

 

カタチはいろいろありますが、そうした子どもたちの根底に流れる「自己肯定感の低さ」に対して、watcha合宿でともはる先生と話したことをもとに、考えてみたいと思います。

 

 

「自己肯定感」の高まりのための要素は3つある

 

自己肯定感が高まるためには、

 

「他者受容感」

 

「自己決定感」

 

「成功体験」

 

の3つの要素があります。

 

 

この3つがそろった時が一番自己肯定感の高まりが生まれます。

 

例えば、計算問題の正答率が上がったり、速く解けるようになったりという成功体験を積み重ねても、教師から与えられた取り組みをただ続けるだけでは、自己肯定感の高まりは不十分です。

また、自分で計算練習を自主的に取り組もうと決めたとしても、友達からは「そんな低レベルなことまだやってるの」と批判されたとすれば、自己肯定感は高まらないでしょう。

友だちから「計算がんばってるね」と認められるような取り組みをしていたとしても、間違いばかりで結果が出なかったとしたら、それも自己肯定感の高まりにはつながりません。

 

 

 

自己肯定感を高めようとするならば、教師一人の頑張りでは絶対に足りません。

 

そこで、子どもたちの力を借りながら、「集団で」自己肯定感を高めていくための視点について、それぞれの要素から考えていきたいと思います。

 

 

 

 

その1 他者に受け入れてもらうこと「他者受容感」

 

 

他者に受け入れてもらう

 

ということは、教師が

 

「お互いの言うことを尊重して、すべて否定することなく、受け入れてあげなさい」

 

という指示で達成するべきことではありません。

 

 

 

人とのつながりは

 

「先生に言われたからやっている」

 

というものではないでしょう。

 

 

人に受容されることのうれしさや、人を受容していくことのよさを実感するために必要なのは、「対話」でありその体験です。

 

ここで「会話」ではなく「対話」という言葉を使っているのは、ただ話していればいいというものではないからです。

 

共通の目的や話題に対して、それぞれが自分事として捉えながら話をし合います。

それが「対話」です。一方通行では「対話」ではありませんね。

 

 

 

そして、他者から受け入れられやすい共通の目的や話題を設定し、「対話するに値する集団」であることを印象付けながら、「対話」を文化にしていきます。

 

・・・と、難しいことを言っていますが、その中身は簡単です。

 

 

いろいろなアイデアを出すような話し合いの体験です。

 

 

クイズやなぞなぞの答えを班で一つに絞って回答する

季節の教室掲示のアイデアを数多く出し合う

運動会の組団のスローガンをつくるために、どんな組団にしたいか願いをたくさん出す

学芸会の発表に必要な小道具のアイデアを出す

 

などなど、話し合いの中で答えが一つではないものや、選ぶにあたってたくさん出しておいた方がいいアイデアを求めるなどの「体験」を通して、自分の言ったことを「受け止めてもらった」という事実をつくっていきます。

 

 

 

あくまで「アイデア」ですから、すぐに批判することなく数を意識することも大事でしょう。

 

私はよくホワイトボードを活用しながら誰もが参加できるテーマの「数で勝負クイズ」を出します。

・3文字の魚

・学校の先生の名前(フルネーム)

・教室にあるカタカナ語のもの

・きへんの漢字

 

などなど。そうすれば、誰かのアイデアを否定することなく蓄積し、それらが楽しい=いいものであるという印象をつけることができます。

 

他にも、「かぶっちゃやーよ」的な、数あるアイデアを戦略的に選ぶゲームなども取り入れています。

 

 

 

まとめ 話し合いの中でアイデアや考えていることを聞いてもらう場をつくる

 

 

 

 

その2 自分で決めてやってみること「自己決定感」

 

イデアを出し合い、楽しい対話を積み重ねるだけでは実践としては不十分です。

そうした体験を通して得た「他者受容感」を、今度は自分で形にしていくための一歩を踏み出すことを子どもたちには求めます。

 

それが、「自分で決める」ということです。

 

 

しかし、「何をしたらいいかわからない」「決められない」という子が必ずいます。

だからこそ、みんなでアイデアを出していろいろな視点から取り組みを考えていくのです。

 

 

 

例えば、

 

運動会の応援練習で団長が「いたら助かる」と思う仕事は何か(太鼓を除く)

 

という問いに対して、

・応援のお手本

 

だけのアイデアでは、声の小さい子や恥ずかしがり屋の子は「やろう」とは思わないでしょう。団長からの「こんなことをしてほしい」という声や、例年の応援練習の傾向、実際やってみての課題などから、アイデアを出して活動を修正する機会をつくります。

 

 

そこで、付箋やらホワイトボードやらを駆使し、グループでの話し合いの中で、

 

「応援歌の歌詞を持つ人が必要だ」

「そしたら模造紙に応援歌を書く人も必要じゃん」

「応援のお手本って何をするのさ」

「腕の振りを1年生の前で鏡になってやったらどうかな」

「それいいけど、それだけでうまくいくかな」

「じゃあ、鏡とは別に同じ向きでやってくれる人を列の中に入れたら?」

 

 

などとアイデアを出してもらいます。(こんな風になったら相当すごいですが。)

 

 

そして、

 

「その中で自分だったら何ができるか」を考え、自分で何に取り組むか決めてもらいます。

 

 

みんながやりたくなくて消極的に「歌詞を書く」ばかりになることも考えられますが、そこは「じゃあ応援練習の時は何をするのか」を考えてもらいましょう。

 

 

 

何が言いたいかというと、話し合いを通して最終的に「自分のことを自分で決める」ことが、自己肯定感を高めるための二つ目のステップだということです。

 

 

 

応援練習の時の応援団長を助けるため

 

といった目的のために、「何もしない(しなかった)自分」ではなく、集団の共通の目的のために「何かした(しようとしている)自分」という位置づけに自分の身を置く必要があります。

 

それが「自己決定感」なのです。

 

 

まとめ 何が大事か、何をやるか、自分で選んで「決める」場をつくる

 

 

その3 やるからには成果を上げたという事実を作ること「成功体験」

 

さて、他者受容と自己決定を何とか活動に位置づけたとしても、それらが成功しなかったら自己肯定感は育ちません。

何としても取り組みは成功させなければならないのです。

ここは責任をもって、子どもたちに成功体験をプレゼントしましょう。

 

しかし、間違えてはいけないことがあります。

それは、

「成功と結果をすり替えること」

です。

 

「みんなの力で優勝することができました」

「応援賞を取ることができました」

 

といった成功は、子どもたちは一時の達成感に身を置くことはできます。

しかし、そうでなかったとしたらどうでしょう。総合優勝を逃したことや、対外行事で入賞できなかったことといった「結果のみ」の総括になったとしたら・・・

 

 

 

取り組んだ成果を結果とすり替えてしまうことほど、もったいないことはありません。

 

 

私たちが見るべきは「結果」ではなく「過程」です。

 

自分で決めた取り組みが、うまくいくかいかないかはやってみないと分かりません。

やる気満々で立候補したくせに、リーダーの女の子の予告も空しく打ち合わせをする昼休みに遊びに行ってしまう男子は、どの学校にもいるものです。

 

そうした「うまくいかない」をあぶりだすことが、最終的に成果を見出すことにつながります。

 

「◯◯日の応援練習のための応援歌の歌詞ができていなくて、1・2年生は全然歌えていなかった」

「前に立つ人が恥ずかしがっていて、後輩にお手本を示せなかった」

 

といった問題点を見つけ出し、

 

「次の応援練習までに絶対歌詞を書く」

「応援団が指示を出せるように、練習の時は別の人が掛け声を言ったらどうか」

「恥ずかしくないようにみんなでやろう」

「振り付けも歌詞に書き加えたらお手本がなくてもできるんじゃないかな」

 

と、改善点を話し合いで見出します。

それが「中間総括」です。

 

もちろん取り組みの最後には「総括」を行います。

結果を成果にすり替えることなく、

 

「途中はうまくいっていなかったけど、あれからちょっと変わった」

 

というポイントを後から振り返り、「ちょっと変わった過程」を価値づけ、それを「成功体験」とするのです。

軌道修正ができたことこそが取り組みの価値であり、それに関わった子を認めていきます。

 

結果に依存する競争原理が渦巻く学校ではなく、過程にきちんと目を向け、みんなでアイデアを出し、決めたことに対して関わり合いながら進んでいくという指導方針を、少しずつ実践していくことで、子どもたちの自己肯定感を高めていきましょう。

 

 

そうした競争原理や結果主義(部活で言えば勝利至上主義のようなもの)ではない価値を子どもたちに獲得させていこうとするならば、

「この行事を通して子どもたちに何を学び取ってもらうか」

「この行事を通して子どもたちに体験してもらいたいことは何か」

といった指導方針について、教師があらかじめ共通理解する必要があります。

 

「楽しい応援練習作りのためにアイデアを出す体験をしてもらう」

「うまくいかなかったときに軌道修正する体験をしてもらう」

「下級生に教えるという立場から、集団に働きかけることの難しさと乗り越えることの達成感を実感してもらう」

 

といった具合です。こうした指導方針の共通理解があることで、子どもたちの試行錯誤の機会を保障したり、失敗を一旦受け止め、修正する機会を設定したりする「溜め」になります。

独りよがりな実践にしてしまうと、割を食うのは子どもたちです。

どんな体験をどのように修正していくかきちんと見通しながら、指導方針を分かりやすく提示すれば、だいたいの先生にはわかってもらえるでしょう。

 

私だったら「最終的に6年生を送る会の発表を自分たちで考え、自治的に活動に取り組めるようにするため」と言います。

自治的な活動の集大成に向けての布石、としておきます。

 

 

 

最近の学校では、効率化がだいぶ幅を利かせるようになってきましたが、裏を返せば子どもたちに失敗すらさせてあげられない学校になってしまっているとも言えます。

こうした窮屈な学校になってしまっていることは後日また改めて書きます。

 

 

 

まとめ 取り組みの中間総括を取り入れながら軌道修正をみんなで行い、よりよいものへシフトする体験を