学校で過ごしている以上、トラブルは起きる。それをどう捉えるか①
こんばんは。たくやです。
学年末に向かっていくこの時期、子どもたちの成長を実感する機会も増えてきます。
今日は子どもたち企画の全校レク(と言っても、職員込みで50人くらいでケイドロをしただけですが)をしました。
自分たちで段取りを考え、司会やルール説明を行い、スムーズに進行していく姿を見て、とても頼もしく思えました。
今日のそのレクの間、私が全校に働きかけることはありませんでしたし、進行の子たちに声をかけたのも本当に少しです。
「10数えて~」くらいです。笑
初めての全校レクのふり返りの中では、
「前はだらだら歩いている人が多かったけど、今日はルールを工夫したからそういう人が少なかった」
「自分たちであいさつやルールを考えて話せるようになった」
と話し、手ごたえを感じていました。
みんな、成長したなあ。先生はうれしいよ・・・
立派にやり遂げた行事の裏で、ちょっとしたトラブルが
そんな中、トラブルもありました。
ある6年生の子が、感想発表を押し付けられたのが納得がいかず、全体の前で不適切な発言をしたのです。
運営をした私のクラスの子の中にも、「あの発言は・・・」と気にしている子もいました。
ただ、発言の内容はさして問題ではありません。
ただ、教師として、子どもたちの成長を見守る立場として、こうしたトラブルを見つめる目はやはり大事だと思っています。
この事例をきっかけに、「トラブルをどう捉えるか」について考えてみたいと思います。
現象を現象としてだけ捉えない。何か事情があるはずだ
暴言を吐く
うそをつく
暴力をふるう
といった不適切な行動は当然やめさせなければいけません。
それは間違いないことです。
ただ、
その不適切な行動の裏には何か事情があり、共感の余地があるはずだ
というスタンスで子どもを見ていかないと、
「ダメなものはダメ」
とか、
「決まりなのだからだめ」「法律だからだめ」
とか、
「相手が嫌がることはだめ」
でしか言えない、ど正論でしか指導できない教師としての道を歩むことになります。
私はこれでした。見事にコケました。
ジャイアンのような影響力のある子でも、スネ夫のようなズルい子でも、行動の裏には何かがあるはずです。
でも、それをそうやすやすと語ってくれたり、本当の理由を教えてくれたりするものではないから難しいです。
だからこそ、トラブルをただその行為を正すということだけで捉えずに、もう少し様々な視点からとらえる必要があります。
今日はここまで。
モヤモヤしながらも、寝ます。