たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

学校で過ごしている以上、トラブルは起きる。それをどう捉えるか③ 「教師の断罪」よりも「クラスメートの共感」の方が効果がある

こんばんは。

 

昨日妻に言われてショックだったのは、

「コートを取りにいってくれたのはすごくうれしかったんだけど、後姿を見て『太ったな』って思って」

でした。

 

原因ははっきりしています。運動不足です。

 

妻に見直してもらえるようにがんばろう・・・

 

 

さて、トラブルを解決していく過程に目を向けた記事も今回で3つ目です。

 

前回はトラブルの解決にあたるとき、教員はどうしても理屈っぽくなってしまう話をしました。

 

takubo-14.hatenablog.com

 

今日は、「トラブル解決の着地のしかた」について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

教師の断罪がすべてになっていないか?

 

 

「先生~。〇〇さんが泣いてま~す」

トラブル発覚。

 

「あとでね」なんて言えませんし、まずは「どうしたの」と事情を聞きます。

そして、加害児童を「お~い」と呼びだして、話を聞きます。

すっとぼける子もいれば、言い逃れをする子もいます。

素直な子ばかりではありません。

 

それでもどうにかこうにか話をします。

 

「どうしてやっちゃったの?」

と原因を探ったり、

 

「君がやられたらいやじゃない?」

「相手の子はどういう気持ちだったと思う?」

と情に訴えたり。

 

被害児童には

「先生がよく言っておいたから」

「〇〇さんも反省しているみたいだし」

と伝え、

 

「ほら、謝って」

「〇〇してごめんなさい」

と、加害児童が謝罪をして終わり。

 

 

 

 

 

本当にいいんでしょうか?

 

 

 

 

えっ、なにが?

とおっしゃる方も多いでしょうし、教師になりたての頃の私もこのやり方でした。

 

 

何が言いたいかというと、トラブルの解決のための過程が

加害児童と教師の問答だけというケースが多いのではないか

ということです。

 

 

 

これは、教師が理屈を教え、子どもはそれに素直に従うことが教育だと思っていた頃の私の指導そのものです。

 

 

今でもたまに顔を出しますけどね・・・

 

 

 

 

子ども自身が解決できるようにしていく見通しはあるか?

 

 

子どもたちの生活にトラブルはつきものです。

それを乗り越える過程にこそ学びはあります。

そして、それらを体験しながら子どもたち自身で解決に向かっていくようにすることに意義があります。

 

「何かあったら先生に言いなさい」

という指導を年間ずっと通している先生がいたとしたら、子どもたちがトラブルを乗り越えていく体験や折り合いをつけていく力をつけているとは言えません。

 

「個人としての自立」も大切ですが、「集団としての自立」すなわち「自治の力」を集団につけていくことも大切です。

 

 

だからこそ、教師がすべきは

教師のモノサシによる断罪

ではなく、

子どもたちの共感のファシリテート

です。

 

そのファシリテートを通して、

 

「こうすれば解決できるんだ」という道筋

「この子(加害児童も被害児童も)が言いたかったのはこういうことなんだ」という児童理解

 

が子どもたちに少しずつ手渡していく見通しが大切です。

 

 

知らず知らずのうちに依存させていた、なんてことのないようにしないとなぁ・・・

 

 

トラブル解決に一撃必殺はない まずは事実の見える化

 

「どうしてやっちゃったの?」と聞いて、当事者が的確に原因を答えられるとは思えません。

 

・感情的になった当時の自分を自分でも言い表せない

・怒られたくなくて自分に都合のいい証言をする

・覚えてない(←これ、結構な割合でありませんか?)

 

といったパターンがあるかと思います。

 

 

そうした時に私が大事にしていることは、

事実の見える化

です。

 

「〇〇さんに殴られた」

「痛かったね、殴られたときはどうしていたの?」(なぐった と書く)

「おにごっこをしていた」

「おにごっこをしていたら突然殴られたの?」

「うん」

「と言っていますが?」

「ちがうよ、ルールを破ってたから注意したらベーってしたんだよ」

「べーってしたんだ。どんなルールを破ったの?」(ちゅういした べーってした と書く)

「バリアを張ってた」

「バリアはだめなんだ」(バリアをはった と書く)

「だめだよ、当たり前じゃん」

「お前も前やってただろ!」

「△△さんも前にやってたからいいと思ったの?」

「うん」

「ほうほう」(△△さんもやっていたからやった と書く)

 

とやっていくと、事実からことの発端は見えてきます。

「どうして?」と聞かなくても、です。

 

 

事実を見える化すると、共感の余地が見えてくる

 

そして、こうした事実の見える化をしていくと、互いの至らなかったところが見えてきます。

同時に、

「これは怒っても仕方がない」

「これは自分も我慢できそうにない」

「これはあんまりだ」

というような共感の余地も見えます。

 

教師は「あなたのここが悪い」と言いたくなるのをぐっとこらえて、子どもに考えさせるのです。

 

そして、今回私が一番言いたいのは、

教師が引き取るのではなく、子どもに開こう

です。

 

加害児童と被害児童の2者間で言い合うのも悪くないですが、ここで第3者を入れます。

(私は第三者委員会と呼んでいます)

 

教師の断罪ではなく、ファシリテートで第三者委員会に意見を求めます。

 

「自分だったら怒るだろうなあと思うところはありますか?」

「自分だったら我慢できないと思うところはあるかい?」

「もし目の前でこういうことが起きたとして、これだけはしてほしくなかったと思うこと、ある?」

 

といった具合です。

 

私のクラスでは最後に第三者委員会が3つの道を提示します。

こんなくだらないことでもめているなんて恥ずかしいので「忘れてください」

謝るほどではないけれど、同じようなことがあると誰か傷つくので「気をつけてください」

さすがにこれはひどいので「謝ってください」(どちらも、の時もあります)

 

これらを子どもが提示し、教師が権威を振りかざすことなくトラブルを解決します。

 トラブルを解決するための過程を子どもたちに開きながら、徐々に自分たちでも解決できるようにしていきます。

 

以前1年生の担任をしていた時、最後には子どもたちがこの解決方法で勝手に黒板に事実を見える化していたのを見たときはひっくり返りました。

 

い、いつのまに!と、本気でびっくりしました。

トラブルを起こした子たちが鼻高々です。

 

そんなに賢いならケンカになる前にやめたらいいのに・・・

 

 

 

ただ、こうしたやり方を言うと「時間が足りない」という人がいるのではないかと思います。

・・・そうです。このやり方には時間がかかるのです。

 

でも、このような過程にていねいに向き合うことが豊かな学びだと思っています。

問題がないなんてありえません。だから向き合い方を教えます。

子どもたちは子どもたちの世界を生きるのですから。