観念的な「ふわふわ指導」の積み重ねよりも
「いじめは絶対にいけないことだからしません」
「みんな力を合わせて、協力して取り組んでいましたね」
「間違いは宝だ、みんなもどんどん間違えていいんだよ」
「仲間外れは絶対に許さないし、つくらないよ」
「ちくちく言葉はだめだよ、ふわふわ言葉を使おう」
子どもたちに向けて発した言葉がなんだか空回ったことはありませんか。
所在なさげに教室の中をするすると漂って、子どもの心に入ることもなくシャボン玉のように消えてしまった経験、ありませんか。
私たちは子どもたちより多少長くこの世にいる分、「先生」として子どもたちの前に立ちます。
ただ、教師の発するすべてを子どもたちが
「その通りだ」
「間違いない」
「将来役に立つぞ」
と思って受け取っているわけではありません。
せいぜい、
「は?」
「よくわかんなーい」
「今日の給食は何かなあ」
あたりが関の山でしょう。
それでも私たちはめげずに子どもたちに対して自立につながるような働きかけを続けています。(というか、そういうつもりでやっていることにしないといけない気になっているだけかもしれませんが)
ただ、時にそれらの働きかけが非常に観念的に、実感を伴わないものになることがあります。
「大人の経験則を子どもたちに伝えよう」というよかれの助言なのですが、これが非常に子どもたちと相性が悪い時があります。
特に、キラキラしたことを言っているとき。
子どもたちは、必要なことを必要な時に学び取るしたたかさをすでに持ち合わせています。
にもかかわらず、私たちはよかれと思って、やれ子どもたちに人生に必要なことは何だとか、これから先こういうことが大事だとか、そういうことを言いたくなってしまうのです。
それがキラキラした理想として、子どもたちの手の届かない話をすることにつながります(私もやってしまっていますが)。
今回私が言いたいのは、
「その伝えたかった意味は本当に子どもたちに入っていくか?」
ということです。
「思いやり」
「団結」
「やさしさ」
「協力」
学校には使い古されたキラキラした言葉がたくさんあり、学校で過ごせば過ごすほどそうした言葉を子どもたちが使うようになっていきます。
でも、国語辞典に載っているような言葉の意味はわかっていても、それらが実際にどのようなことなのか、実感を伴う生きた学びとして獲得している子どもたちは少ないです。
こうした観念的な、知識として獲得するような学びが学校には多いのではないかと感じました。
キラキラした星空を見上げていると、気分はいいです。
しかし、そういう世界にばかり身を置いていると、中身がスカスカして、実態のないものばかりを追いかけてしまいます。
総括は情緒的になり、実感を伴いません。
着地点は達成感ばかりになるでしょう。
それよりは、実感を伴う生きた学びとして、子どもたちの活動の事実をていねいに分析し、拾い上げた石ころを磨いて価値づけていく必要があるなと感じました。
感情論ではなく、
「こういう力がこういう場面で確かめられた」
「こんな事実があったからこそ、私たちは今こういうレベルにいる」
と、子どもたちと一緒になって分析していくことができるようにしていかないと、子どもたちに自立を手渡していくことにはならないのかもしれません。
所在なさげにふわふわと漂う言葉ではなく、子どもたちの事実を通して子ども自身が「そういうことか」と思えるように、私自身の目を日々改めていきたいと思います。