「これができたら本物の◯年生」「あっれー、こんなこともできないなんて、◯年生かな?」
「包摂と排除の切断線を埋め込む」
難しい言葉ですが、今日学びが深かったので。
教師が指導をしていく中で、
「このラインまではいいけれど、これ以上先はだめです」
という線引きのようなものはどこかにあるように思います。
それはその出来事によって、関係性によって、教師の教育観や倫理観によって程度が変わるでしょうし、そういうものはあるように思います。
命に関わること、人権に関わることなど、たがえていけない重たいものから、日ごろのちょっとしたかわいいものまで、そうした線引きに柔軟に対応し、判断し、指導するのが教師の仕事であるとも言えると思います。
ただ、その指導がエスカレートし、
「これができないならば出ていきなさい」
「これができる人が◯年生にふさわしい」
といった排除をちらつかせるような指導になってくると、話は変わります。
「排除されるかもしれない」という不安を抱え、怯えながら教室に通う子どもたちの中には、
教師に従順な(ふりをする)過剰適応児になる
逸脱行動に走る(荒れ、無気力など)
学校に来られなくなる
といったことが考えられます。(教師と子どもの関係)
逆に、その教師の価値に乗っかれる子は教師から包摂され、相対的に優位を認められることになります。
「包摂と排除の切断線を埋め込む」指導は、いつ切り離され、排除されるかという不安を担保に教師の指導を成り立たせるためのおっかない技です。
そこまで考えて発した言葉でないにしても、その影響を敏感に感じ取る子は多かれ少なかれいます。
また、不安や恐怖でその子の行動を矯正しようという指導の先にあるのは、教師からその価値を学び取った子どもたち同士の「競争の世界」です。
それは、
「相手より上を目指し相対的に優位に立とうとする」側面と、
「相手を蹴落とし下へ下へと追いやろうとする」側面とがあります。
教師が言っていた価値をそのまま体現しようとするあまり、その行動を正当化し、正義の名のもとに力を行使する子どもが表れます。いわゆる「できる子」によるいじめの問題です。「注意するつもりでやりました」と悪びれもしない子がいますが、そうした「できる子」が振りかざすゆがんだ正義が子ども同士の関係を壊すことまで見越して、子どもと一緒に世界をつくる教師の指導を考えていく必要があるなと感じました。
学年末が近づき、「もうすぐ◯年生だね」と声をかけることが多くなります。
到達目標から逆算し、足りないものに目を向けていく「ひき算の目」よりも、できるようになったことを確かめ、励ましていく「たし算の目」で子どもたちを見ることが大事ですね。
新しい学年に希望をもたせて進級させるのが、担任の最後の仕事かもしれません。