たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

リーダー像の転換、もう少し勉強しよう

教師の言うことをきちんと聞き、理解できる

教師の指示を子どもに伝え、実行・完了できる

 

といった「教師にとって都合のいいリーダー」観はもうずいぶん前に間違いだったことに気づきましたが、最近はまたリーダー観の揺らぎがきています。

 

つい最近までの私の「リーダー観」は、

 

・リーダーとしてのやる気がある

 

・目的や活動に応じて、得意を活かした多様なリーダーが立ち上がってくるようにする

(スピーチが得意な子が活きる場と、段取りが得意な子が活きる場は違う)

 

でした。

ですが、最近それとはまた違ったアプローチを考え始めています。

 

それは、

 

・友だちの生きづらさに共感し、民主的に立ち上がるリーダー

 

です。

 

昨今の学校では、「わからない」「助けて」を発することができないでいる子が増えてきています。

そうした声をあげると周りから「ダメなやつ」「弱いやつ」とみられ、相対的なポジション争いから脱落していくような感覚が無意識のうちにあるのだと思っています。

 

競争的な文化が渦巻く教室を「安心して居られる居場所」としての機能を取り戻し、共生的な集団へとつくりかえていくために、子どもたち同士はどのような関係を結び直せばいいのでしょう。

 

少なくとも、「主従関係」「上下関係」ではないですよね。

 

他者に呼びかけていたものが、依存をめぐる当事者主体として自己決定権を実質的に行使し、「ケアされるもの」と「ケアするもの」との非対称的な関係を相互応答的な関係に転換していくのである。

(全生研第56回基調 「ケアと自治」を基本とする生活指導と集団づくり) 

 

友だちと相互応答的な関係性を結びながら、友だちがどのように生きており、どのような生き方を願って行動しているかを学ぶことが大切になる。

 (全生研第56回基調 「ケアと自治」を基本とする生活指導と集団づくり

 

「だってこういう思いをしてきたんだもの」

「私も大変なんだ、」

という一人ひとりがそれぞれに抱えているものを引き取り、

 

「本当はこうしたい」

という「もう一人の自分の声に耳を傾け、

 

その要求の実現のためにできることは何か考え、立ち上がる主体となる

 

のが最近知った新しいリーダー像です。

もう少し勉強します。

 

「これができたら本物の◯年生」「あっれー、こんなこともできないなんて、◯年生かな?」

「包摂と排除の切断線を埋め込む」

 

難しい言葉ですが、今日学びが深かったので。

 

教師が指導をしていく中で、

「このラインまではいいけれど、これ以上先はだめです」

という線引きのようなものはどこかにあるように思います。

それはその出来事によって、関係性によって、教師の教育観や倫理観によって程度が変わるでしょうし、そういうものはあるように思います。

命に関わること、人権に関わることなど、たがえていけない重たいものから、日ごろのちょっとしたかわいいものまで、そうした線引きに柔軟に対応し、判断し、指導するのが教師の仕事であるとも言えると思います。

 

ただ、その指導がエスカレートし、

「これができないならば出ていきなさい」

「これができる人が◯年生にふさわしい」

といった排除をちらつかせるような指導になってくると、話は変わります。

 

「排除されるかもしれない」という不安を抱え、怯えながら教室に通う子どもたちの中には、

教師に従順な(ふりをする)過剰適応児になる

逸脱行動に走る(荒れ、無気力など)

学校に来られなくなる

といったことが考えられます。(教師と子どもの関係)

 

逆に、その教師の価値に乗っかれる子は教師から包摂され、相対的に優位を認められることになります。

 

「包摂と排除の切断線を埋め込む」指導は、いつ切り離され、排除されるかという不安を担保に教師の指導を成り立たせるためのおっかない技です。

そこまで考えて発した言葉でないにしても、その影響を敏感に感じ取る子は多かれ少なかれいます。

 

 

 

また、不安や恐怖でその子の行動を矯正しようという指導の先にあるのは、教師からその価値を学び取った子どもたち同士の「競争の世界」です。

 

それは、

「相手より上を目指し相対的に優位に立とうとする」側面と、

「相手を蹴落とし下へ下へと追いやろうとする」側面とがあります。

 

教師が言っていた価値をそのまま体現しようとするあまり、その行動を正当化し、正義の名のもとに力を行使する子どもが表れます。いわゆる「できる子」によるいじめの問題です。「注意するつもりでやりました」と悪びれもしない子がいますが、そうした「できる子」が振りかざすゆがんだ正義が子ども同士の関係を壊すことまで見越して、子どもと一緒に世界をつくる教師の指導を考えていく必要があるなと感じました。

 

 

 

 

学年末が近づき、「もうすぐ◯年生だね」と声をかけることが多くなります。

到達目標から逆算し、足りないものに目を向けていく「ひき算の目」よりも、できるようになったことを確かめ、励ましていく「たし算の目」で子どもたちを見ることが大事ですね。

 

新しい学年に希望をもたせて進級させるのが、担任の最後の仕事かもしれません。

観念的な「ふわふわ指導」の積み重ねよりも

「いじめは絶対にいけないことだからしません」

「みんな力を合わせて、協力して取り組んでいましたね」

「間違いは宝だ、みんなもどんどん間違えていいんだよ」

「仲間外れは絶対に許さないし、つくらないよ」

「ちくちく言葉はだめだよ、ふわふわ言葉を使おう」

 

 

子どもたちに向けて発した言葉がなんだか空回ったことはありませんか。

所在なさげに教室の中をするすると漂って、子どもの心に入ることもなくシャボン玉のように消えてしまった経験、ありませんか。

 

 

私たちは子どもたちより多少長くこの世にいる分、「先生」として子どもたちの前に立ちます。

ただ、教師の発するすべてを子どもたちが

 

「その通りだ」

「間違いない」

「将来役に立つぞ」

 

と思って受け取っているわけではありません。

 

 

せいぜい、

 

「は?」

「よくわかんなーい」

「今日の給食は何かなあ」

 

あたりが関の山でしょう。

 

それでも私たちはめげずに子どもたちに対して自立につながるような働きかけを続けています。(というか、そういうつもりでやっていることにしないといけない気になっているだけかもしれませんが)

 

ただ、時にそれらの働きかけが非常に観念的に、実感を伴わないものになることがあります。

「大人の経験則を子どもたちに伝えよう」というよかれの助言なのですが、これが非常に子どもたちと相性が悪い時があります。

 

 

特に、キラキラしたことを言っているとき。

 

 

子どもたちは、必要なことを必要な時に学び取るしたたかさをすでに持ち合わせています。

にもかかわらず、私たちはよかれと思って、やれ子どもたちに人生に必要なことは何だとか、これから先こういうことが大事だとか、そういうことを言いたくなってしまうのです。

 

それがキラキラした理想として、子どもたちの手の届かない話をすることにつながります(私もやってしまっていますが)。

 

 

今回私が言いたいのは、

「その伝えたかった意味は本当に子どもたちに入っていくか?」

ということです。

 

「思いやり」

「団結」

「やさしさ」

「協力」

 

学校には使い古されたキラキラした言葉がたくさんあり、学校で過ごせば過ごすほどそうした言葉を子どもたちが使うようになっていきます。

 

でも、国語辞典に載っているような言葉の意味はわかっていても、それらが実際にどのようなことなのか、実感を伴う生きた学びとして獲得している子どもたちは少ないです。

こうした観念的な、知識として獲得するような学びが学校には多いのではないかと感じました。

 

キラキラした星空を見上げていると、気分はいいです。

しかし、そういう世界にばかり身を置いていると、中身がスカスカして、実態のないものばかりを追いかけてしまいます。

総括は情緒的になり、実感を伴いません。

着地点は達成感ばかりになるでしょう。

 

それよりは、実感を伴う生きた学びとして、子どもたちの活動の事実をていねいに分析し、拾い上げた石ころを磨いて価値づけていく必要があるなと感じました。

感情論ではなく、

「こういう力がこういう場面で確かめられた」

「こんな事実があったからこそ、私たちは今こういうレベルにいる」

と、子どもたちと一緒になって分析していくことができるようにしていかないと、子どもたちに自立を手渡していくことにはならないのかもしれません。

 

所在なさげにふわふわと漂う言葉ではなく、子どもたちの事実を通して子ども自身が「そういうことか」と思えるように、私自身の目を日々改めていきたいと思います。

学校で過ごしている以上、トラブルは起きる。それをどう捉えるか③ 「教師の断罪」よりも「クラスメートの共感」の方が効果がある

こんばんは。

 

昨日妻に言われてショックだったのは、

「コートを取りにいってくれたのはすごくうれしかったんだけど、後姿を見て『太ったな』って思って」

でした。

 

原因ははっきりしています。運動不足です。

 

妻に見直してもらえるようにがんばろう・・・

 

 

さて、トラブルを解決していく過程に目を向けた記事も今回で3つ目です。

 

前回はトラブルの解決にあたるとき、教員はどうしても理屈っぽくなってしまう話をしました。

 

takubo-14.hatenablog.com

 

今日は、「トラブル解決の着地のしかた」について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

教師の断罪がすべてになっていないか?

 

 

「先生~。〇〇さんが泣いてま~す」

トラブル発覚。

 

「あとでね」なんて言えませんし、まずは「どうしたの」と事情を聞きます。

そして、加害児童を「お~い」と呼びだして、話を聞きます。

すっとぼける子もいれば、言い逃れをする子もいます。

素直な子ばかりではありません。

 

それでもどうにかこうにか話をします。

 

「どうしてやっちゃったの?」

と原因を探ったり、

 

「君がやられたらいやじゃない?」

「相手の子はどういう気持ちだったと思う?」

と情に訴えたり。

 

被害児童には

「先生がよく言っておいたから」

「〇〇さんも反省しているみたいだし」

と伝え、

 

「ほら、謝って」

「〇〇してごめんなさい」

と、加害児童が謝罪をして終わり。

 

 

 

 

 

本当にいいんでしょうか?

 

 

 

 

えっ、なにが?

とおっしゃる方も多いでしょうし、教師になりたての頃の私もこのやり方でした。

 

 

何が言いたいかというと、トラブルの解決のための過程が

加害児童と教師の問答だけというケースが多いのではないか

ということです。

 

 

 

これは、教師が理屈を教え、子どもはそれに素直に従うことが教育だと思っていた頃の私の指導そのものです。

 

 

今でもたまに顔を出しますけどね・・・

 

 

 

 

子ども自身が解決できるようにしていく見通しはあるか?

 

 

子どもたちの生活にトラブルはつきものです。

それを乗り越える過程にこそ学びはあります。

そして、それらを体験しながら子どもたち自身で解決に向かっていくようにすることに意義があります。

 

「何かあったら先生に言いなさい」

という指導を年間ずっと通している先生がいたとしたら、子どもたちがトラブルを乗り越えていく体験や折り合いをつけていく力をつけているとは言えません。

 

「個人としての自立」も大切ですが、「集団としての自立」すなわち「自治の力」を集団につけていくことも大切です。

 

 

だからこそ、教師がすべきは

教師のモノサシによる断罪

ではなく、

子どもたちの共感のファシリテート

です。

 

そのファシリテートを通して、

 

「こうすれば解決できるんだ」という道筋

「この子(加害児童も被害児童も)が言いたかったのはこういうことなんだ」という児童理解

 

が子どもたちに少しずつ手渡していく見通しが大切です。

 

 

知らず知らずのうちに依存させていた、なんてことのないようにしないとなぁ・・・

 

 

トラブル解決に一撃必殺はない まずは事実の見える化

 

「どうしてやっちゃったの?」と聞いて、当事者が的確に原因を答えられるとは思えません。

 

・感情的になった当時の自分を自分でも言い表せない

・怒られたくなくて自分に都合のいい証言をする

・覚えてない(←これ、結構な割合でありませんか?)

 

といったパターンがあるかと思います。

 

 

そうした時に私が大事にしていることは、

事実の見える化

です。

 

「〇〇さんに殴られた」

「痛かったね、殴られたときはどうしていたの?」(なぐった と書く)

「おにごっこをしていた」

「おにごっこをしていたら突然殴られたの?」

「うん」

「と言っていますが?」

「ちがうよ、ルールを破ってたから注意したらベーってしたんだよ」

「べーってしたんだ。どんなルールを破ったの?」(ちゅういした べーってした と書く)

「バリアを張ってた」

「バリアはだめなんだ」(バリアをはった と書く)

「だめだよ、当たり前じゃん」

「お前も前やってただろ!」

「△△さんも前にやってたからいいと思ったの?」

「うん」

「ほうほう」(△△さんもやっていたからやった と書く)

 

とやっていくと、事実からことの発端は見えてきます。

「どうして?」と聞かなくても、です。

 

 

事実を見える化すると、共感の余地が見えてくる

 

そして、こうした事実の見える化をしていくと、互いの至らなかったところが見えてきます。

同時に、

「これは怒っても仕方がない」

「これは自分も我慢できそうにない」

「これはあんまりだ」

というような共感の余地も見えます。

 

教師は「あなたのここが悪い」と言いたくなるのをぐっとこらえて、子どもに考えさせるのです。

 

そして、今回私が一番言いたいのは、

教師が引き取るのではなく、子どもに開こう

です。

 

加害児童と被害児童の2者間で言い合うのも悪くないですが、ここで第3者を入れます。

(私は第三者委員会と呼んでいます)

 

教師の断罪ではなく、ファシリテートで第三者委員会に意見を求めます。

 

「自分だったら怒るだろうなあと思うところはありますか?」

「自分だったら我慢できないと思うところはあるかい?」

「もし目の前でこういうことが起きたとして、これだけはしてほしくなかったと思うこと、ある?」

 

といった具合です。

 

私のクラスでは最後に第三者委員会が3つの道を提示します。

こんなくだらないことでもめているなんて恥ずかしいので「忘れてください」

謝るほどではないけれど、同じようなことがあると誰か傷つくので「気をつけてください」

さすがにこれはひどいので「謝ってください」(どちらも、の時もあります)

 

これらを子どもが提示し、教師が権威を振りかざすことなくトラブルを解決します。

 トラブルを解決するための過程を子どもたちに開きながら、徐々に自分たちでも解決できるようにしていきます。

 

以前1年生の担任をしていた時、最後には子どもたちがこの解決方法で勝手に黒板に事実を見える化していたのを見たときはひっくり返りました。

 

い、いつのまに!と、本気でびっくりしました。

トラブルを起こした子たちが鼻高々です。

 

そんなに賢いならケンカになる前にやめたらいいのに・・・

 

 

 

ただ、こうしたやり方を言うと「時間が足りない」という人がいるのではないかと思います。

・・・そうです。このやり方には時間がかかるのです。

 

でも、このような過程にていねいに向き合うことが豊かな学びだと思っています。

問題がないなんてありえません。だから向き合い方を教えます。

子どもたちは子どもたちの世界を生きるのですから。

 

学校で過ごしている以上、トラブルは起きる。それをどう捉えるか② 「どうして?」で解決はしない

善悪の判断がつかないからトラブルが起きるんじゃない

 

 

トラブルが起こしてしまった子は、いったい何を考えていたのでしょうね。

 

文字通りの意味で捉えれば

 

そんなことするなんて信じられない!まったく!

 

という捉え方になるでしょうか。

 

ただ、子どもたちは思っている以上に善悪の判断がついていることの方が多いです。

特に、対人関係のトラブルに関しては、

 

「人が嫌がることや人が傷つくことをしてはいけない」

 

と小さいころから言われているので、そのくらいの理屈は通りますし、知っています。

(あくまで、落ち着いているときですが)

 

問題は、その理屈を超えるくらい我慢ならない「感情」が、その時その子には起こったという「事実」です。

 

 

 

 

わたしたちはついつい「理屈」を聞き出そうとしてしまう

 

 

数年前、1年生の子が、種をまいた花壇を踏み荒らしてしまったということがありました。

 

 

「どうしてやっちゃったの?」

と聞く若い担任の先生に、きょとんとする子どもたち。

ベテランの先生が聞きました。

「その時、何をして遊んでた?」

「おにごっこ!」

「楽しかった?」

「うん!」

 

話を聞いても、故意にやったとは思えなかったそうです。

どうやら、花壇に入ってはいけないという知識がなかっただけで、鬼ごっこのフィールドがたまたま花壇になってしまったようでした。

 

「知らなかった」という行動であれば、担任の先生は

「ここはね、これからお花が咲くための種をまいたところなんだよ。踏んづけられるとお花がきれいに咲かなくなっちゃうから、ここには入らないようにしよう」

と、正しい知識を与えれば、次はなくなることが多いでしょう。

 

「知らなかった」の指導は「教える」で済みますね!

 

 

トラブルを解決する指導で難しいのは、

 

・故意に物を壊すなどのいたずらをしたとき

・友だちとのトラブルのとき

 

ではないでしょうか。

 

 

そうしたトラブルの時、わたしたちはつい

 

「どうしてやっちゃったの?」

 

と聞きます。

 

 

「どうしてやっちゃったの?」と子どもに聞いて、

 

「先生、ぼくがこのトラブルをやってしまったのには大きく分けて3つの理由があるんだ。一つ目は今まであの子とのケンカでたまったストレスを晴らしてやろうと思ったこと。二つ目は・・・」

 

と冷静に自分を分析して理屈を語ることなどありえないでしょう?

 

 

 

これは、知り合いの先生が珍しく教育センターで講座をすると聞いて飛びついた研修での話です。

 

子どもは大人から怒られたくありませんし、ド正論で諭されたくもありません。

トラブルを起こしてしまった子どもが「してほしいこと」は何でしょう?

 

 

 

それは、「共感」です。

 

 

 

 

 

謝罪をゴールにして指導するのではなく、「分かり合う」をゴールにして指導に当たります。

そのためには、「どうして?」「なぜ?」と最初に理屈を問うのをやめるところからはじめましょう。

 

では、トラブルを紐解き、最後に分かり合うためにはどうしたらいいのでしょう?

 

 

 

 

 

つづきはまた次回!

学校で過ごしている以上、トラブルは起きる。それをどう捉えるか①

こんばんは。たくやです。

 

学年末に向かっていくこの時期、子どもたちの成長を実感する機会も増えてきます。

 

今日は子どもたち企画の全校レク(と言っても、職員込みで50人くらいでケイドロをしただけですが)をしました。

自分たちで段取りを考え、司会やルール説明を行い、スムーズに進行していく姿を見て、とても頼もしく思えました。

今日のそのレクの間、私が全校に働きかけることはありませんでしたし、進行の子たちに声をかけたのも本当に少しです。

「10数えて~」くらいです。笑

 

初めての全校レクのふり返りの中では、

「前はだらだら歩いている人が多かったけど、今日はルールを工夫したからそういう人が少なかった」

「自分たちであいさつやルールを考えて話せるようになった」

と話し、手ごたえを感じていました。

 

 

みんな、成長したなあ。先生はうれしいよ・・・

 

 

 

立派にやり遂げた行事の裏で、ちょっとしたトラブルが

 

 

そんな中、トラブルもありました。

 

ある6年生の子が、感想発表を押し付けられたのが納得がいかず、全体の前で不適切な発言をしたのです。

 

運営をした私のクラスの子の中にも、「あの発言は・・・」と気にしている子もいました。

ただ、発言の内容はさして問題ではありません。

 

ただ、教師として、子どもたちの成長を見守る立場として、こうしたトラブルを見つめる目はやはり大事だと思っています。

 

この事例をきっかけに、「トラブルをどう捉えるか」について考えてみたいと思います。

 

 

現象を現象としてだけ捉えない。何か事情があるはずだ

 

暴言を吐く

うそをつく

暴力をふるう

 

 

といった不適切な行動は当然やめさせなければいけません。

 

それは間違いないことです。

 

 

 

ただ、

 

その不適切な行動の裏には何か事情があり、共感の余地があるはずだ

 

というスタンスで子どもを見ていかないと、

 

 

「ダメなものはダメ」

 

とか、

 

「決まりなのだからだめ」「法律だからだめ」

 

とか、

 

「相手が嫌がることはだめ」

 

でしか言えない、ど正論でしか指導できない教師としての道を歩むことになります。

 

 

私はこれでした。見事にコケました。

 

 

 

ジャイアンのような影響力のある子でも、スネ夫のようなズルい子でも、行動の裏には何かがあるはずです。

 

でも、それをそうやすやすと語ってくれたり、本当の理由を教えてくれたりするものではないから難しいです。

 

だからこそ、トラブルをただその行為を正すということだけで捉えずに、もう少し様々な視点からとらえる必要があります。

 

今日はここまで。

モヤモヤしながらも、寝ます。

 

4月 活動を通して観察を 学級びらきでスタートダッシュは「しない」

 

 

 

 

 

 

 

引き継ぎの内容に引っ張られず、目の前の子どもの姿を客観的に見よう 

 

 

前の記事でも書いたように、楽しい活動を通して担任と関係性を結ぶのは4月の大きなテーマでありやらなきゃいけないことです。それと同時に、大事なのは「観察」です。

 

まずは4月の出会いに際して、目の前の子どもたちや集団をよ~く観察します。

 

・やる気のある子は誰か、シラケている子は誰か

・友だちに働きかける子は誰か、受け身な子は誰か

・影響力のある子は誰か

・意見が割れたときにどんな解決のしかたをしているか

・弱い立場の子を助ける関係性があるか

 

などなど、見るべき視点はたくさんあります。

まだ関係性が結ばれていないので、出会ったばかりでキツイ指導をするのは待ちましょう。

小言の多い教師としてイメージが一瞬でつきます。

 

指導したくなってもしばらくはじっとがまんですよ!

 

学力や走力、ピアノが弾けるかどうかなど、引き継ぎではいろいろなことを言われますが、大切なのは言葉や文字に表れない部分だと思っています。

(今までに私が受けてきた引き継ぎはほぼほぼマイナス面ばかりの冷たい引き継ぎでした。「空気が読めない発言」は長所ですよね?まったく・・・)

 

先ほど述べたとおり、活動を通してみるべき視点はいくつもありますが、その中でも特に私が意識的に観察しているのは以下の3つです。

 

口火を切る子を見つけよう

 

何においてもやる気があることが第一です。

どんなに無鉄砲でも、勉強や運動ができなくても、そのエネルギーがあるだけでリーダーの素質アリです。

また、口火を切れる子は、「居場所」がきちんとあり、安心して過ごせる子が多いです。初めてのことにも果敢にチャレンジしていく姿勢を認めていくことで、失敗しても次がんばろうという前向きな文化が周りの子たちにも広がっていきます。

 

そういう子を探すために、実験のつもりでいろいろと活動を組んでいきましょう! 

 

 

 

 「誰か教科書一緒に取りに来てくれる?」などと立候補制の簡単な仕事を呼びかける

「班で一人お願いしたいんだけど」「これ配ってくれる人~?」などと、手を変え品を変えて簡単な仕事を振ります。

その中で「ありがとう」「やる気あって助かるなあ」と価値づけながら、そういった前向きな姿勢を認めていきます。

 

 

はじめは先生に好かれたい一心でやろうという子もいます。それでもいいです。

 

まずはやる気が一番素晴らしいことを伝え、活動をしていく中で、その「自分から」の中身を観察していきます。

一人の子の得意や不得意が見えてくることもあれば、どんな活動をしてもシーンとしている子の存在に気づいたりもします。

 

 

班で簡単な話し合いを設定する

私はどちらかというとこちらの方をよく見ています。

今度は対教師ではなく、対子どもの関係です。

 

「班で自己紹介をしてみよう。誰か言うことを2つと話す順番を決めてね」などと指示を出します。

すると、頼まれてもないのに「じゃあじゃんけんしよう」とか、「好きなテレビを言おう」と動き出す子がいます。そうした子を見つけます。

「仕切りたがり」も見方を変えれば「段取りを組める」という長所です。

 

 

もちろん煙たがる子もいますが、それは後々指導の中で改善させることができます。みんなが納得できる仕切り方を教えれば、水を得た魚のようにどんどん進めていけるでしょう。

 

でも、口火を切る勇気についてはなかなか変わるものではありません。

だからこそ、そうした子たちを見つけるために、班でのクイズや学びを設定し、価値づけていきましょう。

 

私は黒板の端にやることを書き、教室の角から全体的に眺めるようにしています。

困っている班には「順番決まらないの?じゃあじゃんけん!」「とりあえず好きな食べ物でいいよ。先生はカレーが好きだな」と見通しをもてるように簡単に指示を出し、盛り上がっている班には「何の話?」と声をかけながら、ひとところにかかりきりにならないようにしながら観察します。

 

 

影響力のある子を見つけよう

次はクラスの中で影響力のある子です。

教師が重宝するいわゆるリーダー性のある子も影響力がありますが、それとは別に、ボス的な影響力を発揮する子も見つけておきたいです。

ジャイアン的な子のイメージです。

安心・安全のためには見過ごすことのできない存在になっていきますが、その悪いところをガチンコで直そうというのではなく、がんばりどころを与え、人の役に立ったり、みんなが楽しむのに一役買う体験を通して、わがままで乱暴なレッテルを変えていきます。

 

「きれいなジャイアン」よりは「映画版ジャイアン」の方がしっくりきますかね?

 

外に出て遊んだり、おしゃべりしたりして子どもの世界をのぞく

 

子どもたちの素が出やすい場といえば、 何と言っても休み時間です。

トラブルが起こりやすいのもこの時間だと言えます。

 

その様子を見取りながら、影響力のある子を探します。

 

「先生も入れて!」と子どもたちの遊びの輪に入って一緒に遊んでいるとき、自分にだけバリアを張ったり、鬼のメンバーを仲良しのメンツで固めたがったり、鶴の一声で遊びを決めたりする子を見つけます。

 

また、ニンテンドースイッチのゲームで覇権を握っている子や、スポ少の競争の渦の中にいる子なども対話の中で「へー!」「そうなんだ!」「がんばってるねえ」とニコニコ聞きながらアンテナを張ります。 

 

 

乗り遅れている子を見つけよう 

 

 困り感を抱えている子がどのクラスにもいるものです。

そういった子に対しての手立てはタイミングを見て確実に打ち出す必要があります。

 

タイミング、と言ったのは最初からその子にかかりきりになるのは避けたいからです。

知り合いの先輩の先生で、4月は困っている子よりも先に普通の子たちと遊んで関係を作るという人がいました。

 

なぜかを聞いたら、ちゃんと理由がありました。

 

4月の最初から困っている子にかかりきりになると、他の多数派の子たちが「ぼくたちのことは見てくれない」と離れていってしまうからです。

4月のうちに関係を作り、5月からは困り感のある子の支援に回っていくと、案外多数派の子たちは平気なことが多いそうです。

 

とはいえ、そういった子が集団の中でどんな関わられ方をしているのかは見ておく必要があります。

すっかり下に見られてしまう前に、少しずつでも成功体験を積み重ね、よくない行動の割合を減らしていきたいからです。

 

そのためには、乗り遅れていく子がどんなタイミングで困るのかを実験を通して観察する必要があります。

 

指示の出し方を工夫して、より多くの子どもたちが参加できる手立てを実験する

 

基本は指示は一つずつです。

必要に応じて手順を黒板に書いたり、到達度をマグネットで示したりします。

 

そうした個別の作業についての乗り遅れは、教師の支援でうまくカバーしていきます。

 

 

問題は子どもたち同士の関わりの中での乗り遅れです。

 

友だちの話を全然聞いていない子

当てられてから話す内容を考え始めるような子

自分で自分のことを決められない子

 

そういった子たちを救い、安心と安全が保障される学びの場をつくるために、わたしたちができそうなことは何なのか、手立てをいくつも試していきます。

 

「今話していることはこれだよ(黒板を指さしながら)」

「順番に話すから、先に考える時間を取ります。必要なら簡単にメモをするといいよ」

「似ている考えも考えだよ。自分の言葉で言えたら立派な考えだ」

 

忘れてはいけないのは、そうした子たちに声を荒げることなく関わる姿を子どもたちに見せることと、そうした温かい関わり方をしている子を認めていくことです。

 

子どもたちがよそよそしいうちに、人権意識を守るという文化を少しずつ作っていきましょう!

 

 

長くなりましたが、4月は観察から始めるということを私は意識しています。

黄金の3日間という言葉を冠した書籍が書店にたくさん並ぶ季節がやってきます。

 

私も、黄金の3日間はあると思います。

ただ、そこで「力の指導」を展開し、「ナメラレナイキョウシ」としてのスタートを切るのではなく、ホッとする関係性作りから始めます。

その3日間に軸足を置きすぎるのではなく、もう少し長い目で、1年間を通して子どもたちの自治の力を育てていきたいと考えます。

 

 

 

takubo-14.hatenablog.com

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