たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

集団づくりに取り組む教師のカードの切り方とそのタイミング

こんばんは。たくやです。

実は昨日から突然の発熱と頭痛に襲われています。もうおさまりましたが。

梅雨明けして急な環境変化で、体調が崩れがちになります。

みなさんも夏休みを有意義なものにするために、睡眠と食事はしっかりとりましょう。

 

 

さて、今回からはwatcha合宿でともはる先生とあれやこれやと話したことを少しずつまとめてみようと思っています。

 

一度にドカンとやると言葉の精度を欠くので、あえて少しずつ進めてみようかと思います。

 

 

 

 

集団づくりに見通しをもつとすれば、まずは個の満足度を高めることから

 

どんな学年、学級でも、最初から集団づくりの実践に打って出るということは難しいそうです。

なぜなら、自分が満足できない集団に貢献しようとは思わないからです。

 

だからこそ、学級が始まった4月からすぐに活動を立ち上げ、システム化を通してロケットスタートを決めることはしません。

 

じっくりとそれぞれの子どもたちを分析しながら、一人ひとりが

 

「明日も学校に行きたいな」

「なんだか新しい学年のこれからが楽しみだ」

「新しい先生はおれのことちゃんと見てくれてるよ」

「友達といるとほっとするなあ」

 

と思えるようなクラスにすることが必要です。

 

 

満足度を高めたうえで、子どもたちのアイデアを吸い上げて楽しく遊ぶ

 

学級の子どもたちの分析を着々と行いながら、子どもたちの満足度を高めたうえで、学級内クラブやお楽しみ係活動、この指とまれ実践といった「子どもたちのアイデアを実現できる楽しい活動」を立ち上げます。

 

これは、子どもたちが自由な発想で楽しい活動を生み出すことを通して、友達とつながろうとする実践構想です。

4月・5月は無理につなげようとはせず、自然発生的な休み時間の遊びや給食でのおしゃべりのみに留まっていました。

ところが、ある程度子どもたちの満足感を満たしてくると、だんだんとエネルギーが余ってきます。

そのエネルギーを今度は外向きに発揮し、発散させるのです。

 

6月ころになると教師を値踏みする「試し行動」もそろそろ終わりになります。

担任との新鮮なやり取りにも飽きてきて、荒れや無気力といった子どもたちの真の姿が解放されていきます。

 

そこで、試し行動が終わりに差し掛かるころ、今度は子どもたちのアイデアを受け止め、みんなが楽しめるようにという目的のために知恵を絞る体験を通して、遊びを通して自治の基礎を手渡します。

 

※荒れや無気力は捉えようによってはあるがままの自分を解放できるクラスになったとも言えます。大事なのは、その事象が起こったから悪い、起こらなかったからいいということではなく、その子どもたちの姿をどのように分析するかです。

 

 

「みんなと楽しむ」から「他者貢献・自己成長」へ

 

そうした遊びを通して、

 

「自分がアイデアを出した遊びに友達が来てくれるとうれしい」

「あの子がやってくれたあの企画、楽しかった」

「あの子でもできるようなルールにしたら、たくさんの友達が喜んでくれた」

「ぼくたちのリクエストを聞いてくれて、ありがたい」

 

といった、子どもと子どもがつながる活動を打ち出した実績をもとに、今度は

 

「誰かのために」

「自分のために」

 

の活動を立ち上げていきます。実践の流れとしては9月、早くても1学期の終わりころにはなるでしょう。

 

 

 

 

今日はこのくらいにしておきます。

書き足りないくらいで止めておくと、長続きするということでしたので。

 

 

まだまだ書きたいことはいっぱいです。

 

具体的な実践構想

子どもたちが計画を立てることの価値

中間総括

総括

活動のリハーサルの価値

野球型とサッカー型の取り組み

・・・

 

 

子どもたちの成長に関わる理論も勉強しないとな。

エビデンスがきちんと出てくるともはる先生を見て、そう感じました。

 

 

道徳の「心情メーター」(ハートメーター・心のものさし・心情円盤)の使い方について考える

お久しぶりです。

夏休みが始まって、皆さんいかがお過ごしですか。

 

夏休みの予定にうきうきしている人も多いと思います。

私は今週末に迫ったwatcha合宿に参加するのが楽しみです。

きっとおもしろい先生方がたくさん集結するでしょうから笑

 

さて、今回は道徳の心情メーターについて考えてみたいと思います。

 

 

 

最近の道徳の教科化を受けて

 

道徳が「特別の教科 道徳」になって久しいですね。

「内面や行動を評価するのではなく、学びの過程を評価する」というのも難しいですし、学期ごとに評価するのか、学年末に評価するのかというのも地域によって様々です。

 

内容項目をきちんと網羅する必要がありますが、「教科書を必ず使わなければいけないというわけではない」というのが他の教科とは違うところかと思います。

(学校によっては教科書を必ず網羅し、35の教材を全て扱えというところもあるようです)

 

私もTwitter界隈の先生方に倣って絵本を道徳に活用したり、教科書の教材文をさらさらと流し、それをきっかけに写真で授業したりと、自由な手立ての中で子どもたちにいろいろと語ってもらうことを念頭に授業を展開しています。

 

その中で私が一番に考えるのは、

「道徳で傷つく子がいないか」

ということです。

 

内面を評価するわけではない

とお上は口をそろえますが、影響があるのではないかというのが私の見解です。

だからこそ、私自身の矮小な価値観を子どもたちに植え付けたり、「空気読め」「これが普通」と違いを受け入れず、同調圧力を強めてしまったりするような時間にはしたくありません。

 

だからこそ、道徳の実践には「デリケートな部分がある」と思っています。

 

 

 

道徳指導の研究会で必ず出てくる授業改善3つ ~役割演技・アンケート・心情メーター~

 

さて、道徳の研究授業を見たり、授業研究会に出たことのある先生も少なくないと思いますが、これら3つを盲目的に話題にあげる先生はいませんでしたか。

 

国語のような「読み取り」とは違うものの、登場人物が出てきてある程度内面に変化があるとすれば、その登場人物に自分を重ねて考えることは当事者意識の醸成や共感の疑似体験につながります。様々な立場に立って考えるという「多面的・多角的な見方への発展」にも合致するでしょう。

 

また、「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めていく」ためには、自分が日ごろどのような意識で生活しているか(いたか)を明らかにし、そこをきっかけにして試行していくこともうなずけます。

 

そして、「主体的・対話的な学び」として、学びの結果だけでなく学びの過程にまで学習指導要領の文言が踏み込んできたことを考えると、子どもたちと教師が問答をするだけの授業展開から、子ども同士が自分たちなりに対話するようにしていきたいという教師の意図も十分に分かります。

 

自分と相手の考えの違いを「見える化」することから、「なぜそう考えるのか」「考えの根拠は何か」といった対話を生み出し、相手側の意見を受容するきっかけにすることができます。

 

 

ここまで述べたように、昨今の学習指導要領の改訂や時代の流れを受けて、道徳の授業改善の中で先生たちが勉強してきたからこそ、これら3つの手立ては市民権を得、どんな年代でも取り組みうる手立てとしての地位を確立したのだと思っています。だからこそ、これらを頭ごなしに否定はできませんし、発達段階と場合によっては有効な手段になり得ます。

 

 

でも・・・

 

 

どんな手立てでもそうですが、盲目的に「これさえやっておけばいい」という思考だと、いつか錆びつくときが来ます。思考停止。

 

誤解のないように何重にも線を引いておきますが(笑)、どの手立てでも大事なのは使い方です。

 

即興的な役割演技が更なる考えの深まりを生むこともあれば、シラケた雰囲気づくりに加担している役割演技もあります。

普段の生活の問題点を明らかにし、授業の冒頭から子どもたちの課題意識を焦点化することに役に立つアンケートもあれば、授業内容の硬直化を招くアンケートもあります。

 

「デリケートな部分がある」からこそ、道徳の授業には気を遣います。

中でも私個人が気をつけているのは、「心情メーター」です。

 

 

心情メーターのデメリット

 

心情メーターのメリットは「見える化を通して子どもたちの対話を生み出す」ことです。

私も学級会の決定事項はできる限り「見える化」しますし、最近は引き出しの中身まで付箋で見出しをつけるようになりました(私は片付けが苦手で、子どもたちからもよく注意を受けます)。

 

見える化」の恩恵は様々なところに出ますが、その「見える化」が招くデメリットもあるということを理解して使う必要はあると思います。なぜなら、「心情メーター」で見える化しようとしているのは、子どもたちの「内面」であり「思想」だからです。

 

 

「心情メーター」が生む「同調圧力

「ブランコ乗りとピエロ」のお話をご存じですか。

サーカスのリーダーのピエロの言うことを聞かないブランコ乗りのサムが予定時間を大幅にオーバー。ピエロは文句を言おうとしますが、お客の盛り上がりと、懸命な演技の代償に真っ青な顔をして疲労困憊のサムの姿を見て、不満が溜まった団員たちを説得します。その後、ピエロとサムは仲良く・・・っていうあれです。

 

この教材の中で、「自分はピエロとサムのどちらに近いと思うか」という問いで、心情メーターを使ったらどうでしょう。私が何回か見てきた授業の中で、サム寄りの考えを心情メーターで表した子はいません。

 

「善か、悪か」「白か、黒か」といった二つに一つの立場を明らかにするための心情メーターの使い方だと、子どもたちは盛大に忖度します。

 

心のどこかでサムのような生き方がうらやましいと思っていても、個と集団であれば集団を優先してきた「学校文化」の成果が出ているとすれば、そこで選ばれるのはピエロです。

 

どんなに「道徳には答えがいくつもあるよ」「あなたの素直な考えでいいんだよ」と子どもたちに伝えていても、です。

 

分別のある子どもたちは、出る杭になることを避けます。

考えが違うと、先生や友達から何か言われることが体験的にわかるのです。

 

 

 

 「心情メーター」を使うと、一方が大きくなると一方が小さくなる。それは本当か?

「青の洞門」というお話があります。

罪人の了海が罪滅ぼしのために岩山を人力でくり抜こうとすること二十余年、敵討ちに来た実之助が了海の姿を見て敵討ちをやめて一緒に洞門を掘り進め、見事悲願を成し遂げる。最後に了海は自分を斬れと覚悟を決めるが、実之助は「まことに、よくやりとげましたなあ」と涙ながらに了海の手を取り・・・というあれです。

 

この実之助の敵討ちの気持ちについて「心情メーター」を使うと、「敵討ちをしない」側に片寄ります。

6年生ともなれば、

「事情があれば人殺しを認めるという思想をもつ子として見られるのではないか」

ということを考えるくらいには子どもたちも賢いです。

 

さて、私がここで言いたいのは心情メーターの使い方というよりは心情メーターの構造上の弱点のことです。

 

心情メーターの形にもいろいろあり、円に切り込みを入れて円グラフのようになるものや、水色とピンクの帯が窓から見える帯グラフのようなもの、マグネットで自分の立ち位置を示すものと様々な種類があります。それらに共通するのは、

 

どちらかが増えれば、もう一方は減る

 

ということです。

 

敵討ちをしようと二十余年了海を探し続けた実之助の恨み・執念が、シュ~~と小さくなっていくでしょうか。それに対応するように手伝う気持ちがムクムクと大きくなるでしょうか。

 

捉えるべきは、実の父を殺された恨みを晴らすことに人生を賭け、敵討ちをしなければお家取り潰しになる事情を抱えながらも、敵の仕事を手伝う実之助の葛藤です。

それが相対的に小さくなっていくのを「見える化」してしまっていいのでしょうか。

 

教材文の結末を知っている子どもたちは、自分が選んだ「心情メーター」がお話の通りにいかないことを多少なり恐れます。

 

 

対話を生むための「心情メーター」のせいで道徳の授業が弾力を失い、画一的で乾いたものにならないようにしていく必要を感じます。

 

 

終わりに

中盤にも述べたとおり、これらの手立てを使うのが悪いのではなく、使い方をきちんと考える必要があると私は考えています。

 

子どもたちの語る言葉に注意深く耳を傾け、受容と共感、安心できる居場所づくりにつながる道徳の時間になることを信じて、実践を積み重ねていきたいと思います。

 

それではまた。

 

 

 

 

地域と学校をつなぐ 子どもも地域も教師も元気に

みなさんの学校は「学校応援団」とか「学校運営協議会」とか「コミュニティスクール」の取り組みってありますか。

 

先日その研修会があったのですが、その研修よりもそのあとに地域の方とお話したことのほうがずーーっと勉強になったので、今日は短くそのことについて書いてみます。

 

 

 

 

 

コミュニティ・スクールって何? 

 

コミュニティスクール(学校運営協議会制度)とは、学校と地域住民などが力を合わせて学校の運営に取り組む「地域とともにある学校」への転換を図るための仕組みだそうです。

 

 

 

文部科学省 コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/community/

 

学校と家庭との連携に加え、学校と地域も連携をしながら、特色ある学校づくりを進められることをうたっています。

 

コミュニティ・スクールの導入が進んできている自治体も増えてきましたが、「うまくいっているか」と問われると、「うーん・・・」という学校も少なくありません。

 

 

 

コミュニティ・スクールってどんないいことがあるの?地域の方と話して感じたこと

 

これはいくつもあると思いますし、学校や地域によってそれぞれ置かれている状況が違うので、全てに共通するわけではないことを前もって言っておきます。「子どもの活躍の場を広げる」と言いながら実際はマンパワー(労働力)の確保が目的だったり、企業の広告塔としての役割を担わされる例もあります。それらが子どもたちにとって有効にはたらくときもあれば、そうでないときもあるでしょう。それらはやってみないと分かりませんし、その分水嶺は結果ではなく過程にあると思います。

 

私が地域の方とのお話の中で感じた「地域と学校」という視点でここでは書くことにします。

 

 

 

 

(1)教員の資質能力に左右されない「質の高い地域学習」の提供が可能に

 

コミュニティ・スクールを通して、地域のつながりが再構成されていくと、地域の人材の蓄積が行われていきます。

 

地域の人材の蓄積が行われると、2年生の町探検(生活)や、3年生の学区探検(社会)、中学年の地域学習(総合)といった学習に地域ぐるみで関わり、子どもたちの見学のインタビュー活動や絵地図作りに活かすことができます。

 

 

 

赴任したての異動教員や、若手の教員が受け持ちになったとしても、前年までの蓄積があるので困ることは少なくなります。

 

 

私のように「休日に峠を越えて自転車で学校に行く最中に、学区で見つけた面白そうなお店に初見で「こんにちは~」って入っていくような教員」ばかりではないと思うので、こうした取り組みで助かる先生はいると思いますし、その年の教員がその都度地域の人材を掘り起こして学習に臨むというのは厳しいです。何より、子どもたちにとって魅力的な地域学習を提供し続けることになりません。

 

だからこそ、地域人材を蓄積し、学校のカリキュラムとその地域人材とをつなぐシャフト役が必要です。地域の方の中でもこればかりはだれでもできるわけではありません。

 

 

 

 

 

 

 

(2)子どもたちが潜在的に求めている「遊びの体験」と、地域の年配者がもつ「遊びの経験」をリンクさせることは「生の実感」につながる

 

うちの学校のような小規模校の子たちは、放課後どんな風に過ごしていると思いますか?

 

自然豊かで、地域には小川が流れ、明るい林があり、花は年中咲いています。

遊具のある公園こそ少ないですが、神社やお寺、広場はあります。

何なら放課後学校に戻ってきて遊んでもいいです(私の子どものころは学校を2往復する生活でした笑)。

 

そんな自然に恵まれたうちの学校の子たちは、残念ながら外で遊んでいません。

都会の子のほうがよっぽど外で遊んでいるのではないかと思うくらいです。

 

 

 

ゲームの普及よりももっと深く、このような地域には「近所に遊べる子がいない」という抜け出せない現状が蔓延しているのです。

 

 

 

そうした「遊び体験の喪失」を、地域の方が学校と関わることでちょっとずつ取り戻していけたら、子どもたちは元気になると思います。

放課後の遊びに限定せず、体験活動の一環として、無理のない範囲でいろいろな遊びに取り組んだり、郷土料理を食べたりするのもいいでしょう。

 

 

同様に、「過去の遊び経験」を子どもに還元する側の地域の人はどうでしょうか。子どもからお金やモノの見返りはありませんが、「ありがとう」の言葉はつながったことによる喜び、教えたことによる充実感につながります。

孤独死が社会問題になっている昨今、「つながり」は得ようと思ってはいてもなかなか簡単に得られるものではありません。そうした「つながり」を参加者に提供できる場として、コミュニティ・スクールの取り組みが活用されていけば、楽しさをきっかけにした「生の実感」につながるといっても、決して大げさではないと思います。

 

 

 

 

(3)コミュニティ・スクールは地域のエネルギーのある人を吸い上げる仕組み。だからこそ参加した人が元気になり、「地域の一員」という「当事者意識」を強める

 

地域と学校をつなぐ取り組みをしたからといって、学校を最優先に動いてくれる人は本当に少ないと言っていいでしょう。みんなそれぞれの生活があり、仕事があり、考えがあります。

PTAが任意団体であるのと同様か、それ以上に参加を強制するものではないということを鼻息の荒い人にはわかってもらう必要はあると思います。

「何で参加してくれないの!」

とか言うのはちょっとお門違い。

 

 

 

 

それでも、やってくれる人はやってくれます。

それはなぜか。

 

 

 

 

 

日本の消費社会が成熟しきった今、モノにあふれた社会を生きる人々はモノよりも「体験」を求めるようになったからです。

 

 

 

BBQやキャンプ、グランピングがピックアップされ、

クラウドファンディングとそれに伴うイベントが盛んに行われ、

SNSを通したインフルエンサーとしての価値が高まり、

都会からもたくさんの人がボランティア活動に参加しにいきます。

モノの豊かさによって単純な消費には飽きてしまった社会の中で、「人とつながる体験」「地域のつながりの実感」を求める人はこの先もっともっと増えます。

 

 

「都市と地方をかき混ぜる」の著者、高橋博之はこうした消費行動のキーワードを「共感と参加」と述べています。

 

ただ物とお金を交換するのではなく、人々はその物の背景にある価値観に「共感」したり、その物の価値を高める物語づくりに「参加」したりすることを求めている。

 

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https://www.amazon.co.jp/都市と地方をかきまぜる-「食べる通信」の奇跡-光文社新書-高橋-博之/dp/4334039367

 

 

 

 

コミュニティ・スクールを、

 

単に国が推進しようとしている、上から降ってきた取り組み

 

として捉えるのではなく、

 

地域への当事者性を強め、参加した人を元気にする体験の場

 

として捉えることで、コミュニティ・スクールは地域シンボルとしての学校の輝きを強めることにつながると思います。

 

 

 

おわりに

 

「都市と地方をかきまぜる」を読んで感じたのは、「どちらか片方を選ぶ」のではなく、「双方のいいとこどり」をしてもいいということです。

都会は便利、田舎は豊か。

 

学校現場においても、ICTの活用やタブレットの導入、利便性はどんどん高まってきていますが、それだけが教育の質の高さではありません。

実際に触る、作る、話す、歩く、といった「体験」も大事な教育の一つです。

 

グラフィックを駆使し、分かりやすい動画を見たからといって定着は難しい。

だからといって前時代的なままの教育を提供していくのも違う。

 

そうした学校現場に、コミュニティ・スクールは一筋の光となりうるのではないかと、地域の方と話して感じました。

 

風穴を開けるほどのインパクトを求めるのではなく、無理のない持続性の中で、子どもたちも、地域の方も、私たち教員も元気になれる道を探っていきたいです。

トラブル解決の場に子どもたちの「共感」を 子どものトラブルで意識したい3つのこと

 

「共感性の乏しい子」という学習会での気づきは、最近の私の実践テーマになりました。

一緒に組んでいる支援学級の若手の先生(一応私も20代ですが)とも、

 

「この子のこうした発言はどうして出たんでしょうね」

「ケンカすることが『できるようになった』とも言えるんじゃないかな」

「問い続けると『じゃあもういい』ってなっちゃうんですよねー」

「この子とこの子の関係性はだいぶマイルドになってきましたよ、対話が多いからですかね?」

 

などという話をしています。

 

 

「現象そのものに対する指導内容」ではなく、「現象から見える実態分析」と、それに対する「指導方針と指導内容」の話をするように心がけています。

もちろん笑い話や愚痴もありますが・・・笑

 

 

 

さて、今回は「教師が子どもに寄りそって話を聞く」ということについて考えてみたいと思います。

 

 

 

子どもが被害を訴えてきた!その時どうする?

 

「先生、〇〇君がブランコを貸してくれません」

「先生、〇〇さんがぼくに悪口を言ってきました」

「先生、何もしてないのに〇〇君に叩かれました」

 

 

小学校には大規模だろうが小規模だろうが、対人関係のトラブルが転がっています。

 

 

訴えがあった時、「今忙しいからあとでね」なんて先延ばしにしてしまっては子どもの「聞いてもらいたい」という気持ちに応えることができません。まずは手を止めて、「どうしたの」と聞きましょう。

 

 

被害を受けた側の子はあれやこれやと話をします。

「さっきから待ってたのに、わたしが『あと〇回ね』とか言っても無視するんです」

「ぼくは何もしていないのに嫌なことを言いました」

「ぼくがね、鬼ごっこをしてたらね、突然ね、後ろからね、叩かれたの」(ね、が多い子、いません?笑)

 

 

それらの訴えを受けて、いよいよ先生は加害側とおぼしき子を、ちょいちょい、と呼んで話を聞くわけです。

 

 

この時に大切なのは、教師はあくまでファシリテーター、中立の立場で話を聞くことです。

 

 

「事実確認をする」ということは、同時に「途中に口をはさんで上から目線の指導を入れない」ということでもあります。

話を聞こうとするその子の様子や特性、言語化できるかどうかなど、留意するべき点はたくさんありますが、まずはその子の「本音」を引き出せないことには話は進みません。

 

ここで嘘やごまかしが多いのは、「教師が怒る気満々だから」ということが多いように思います。

子どもは正直に言ったほうがいいのはよくわかっています。

それでもごまかしてしまうのは、怒られたくないからです。怒鳴られたくないからです。

 

お母さんには正直に言えるけれど、お父さんには言えない

担任には正直に言えるけれど、親には言えない

女性の先生には正直に言えるけれど、男性の先生には言えない

 

とか、身に覚えはありませんか?

裏表のないまっすぐな子であってほしいという私たちの願いも空しく、こうしたトラブルの時に子どもはごまかしたくなるものです。

そんな子どもたちから本音を引き出すためには、まずは話を傾聴するスタンスをきちんと示し、怒鳴りつけて恐怖で反省を促すスタンスをやめることです。

 

 

 

事実確認をするうえでその子の思いをきちんと受け止め、両者がトラブルを乗り越える中で互いを尊重できるように支援するのが私たちの役割です。

 

 

 

 

このような受容・傾聴の姿勢や表面的な解決とせずにアフターフォローにまで見通しをもってその子に寄りそうことが大切だと思います。

 

  

ここで私が意識して取り組んでいるのは、「黒板さばき」というやり方です。

 

 

 

 

「黒板さばき」って?

 

「黒板さばき」とは、どもたちから出た話を黒板やホワイトボードなどに「見える化」することです。

 

 

まずは何が起き、何をされ、何をしてしまったかを時系列にまとめていきます。

「叩いた」をきっかけに、そのあとの「蹴った」「逃げた」「悪口を言った」といったトラブルのエスカレートの様子が明らかになります。

また、同じ「叩いた」でも、その前の「悪口を言った」「足が引っ掛かった」「ふざけていて危なかった」などとトラブルの火種をさかのぼっていくことにもなります。

 

 

そして、その中で

「一番自分が嫌だったことはどれ?」

「自分がこれだけは許せなかったことは何?」

「ここで手が出たんだけど、その時に本当は何を言いたかったの?」

と問い返しながら子どもたちの思いを引き取ります。

  

ここまで「こうしたほうがいい」なんて言いませんし、「君が悪い」ということも言いません。

 

 

大事なのは関係する子たちの中で「事実の点が線になる」こと、お互いの気持ちがどうだったのかの整理をすることです。

そして、「見える化」する過程で「自分の思いを先生は受け止めてくれた」という事実と、それらを相手は見ている、この黒板を一緒に作っているという事実を示します。

 

 

黒板さばきをしているとき、加害者も被害者も同じ方向を見ています。そして、同じ命題に向かっていくことを通して、

「あ、こういう時に怒るのはおれも一緒だ」

「こんなことされたら悲しい気持ちになるよな、ぼくも一緒だ」

「こんなこと言われたらがっかりする。わたしも一緒」

と、共通点を見つけていくことができます。

 

 

 

 

何のために「黒板さばき」をするのか

 

私がトラブルの解決の中で意識したいことは大きく分けて3つです。

 

①子どもの「本音」を引き出し、嘘やごまかしのない誠実な文化をつくること

②加害者・被害者ともに共感され、共感する場にすること

③トラブルを解決する過程を子どもたちに開き、自治につなげていくこと

 

「本音」を引き出すために、教師との信頼関係を作っておくことは重要です。

しかし、それ以上に考えなければいけないのは、教師とその子の関係は一時的なもので、子どもと子どものほうがずっと関係は続いていくことです。

 

だからこそ、たとえトラブルの解決という場だとしても、共感を軸にした「他者理解」を進めていく必要がありますし、教師の断罪ではなく子どもたちによる解決の方法を示し、自治を手渡す必要があります。

 

 

こうした「黒板さばき(見える化)」を通して、子どもたちはトラブルを客観視し、自分で

 

「あ、これは言いすぎだ」

「先に手を出してしまった」

 

という分析ができるようになります。友達に傷つけられた事実と同時に、傷つけた事実を認識し、自分で自分を分析するためには、頭の中だけでは難しいです。

見える化」をすることで客観視すること、

 

 

 

そして、「黒板さばき」をする過程にはもう一つの側面があります。

 

 

それは、当事者だけでなく第三者にも入ってもらえるということです。

 

 

 

そこからさらに一歩。共感の場を子どもに「開く」

 

三者に入ってもらうことで、共感の輪は広がり、同時に問題の解決の中に子どもの目を取り入れることができます。

 

三者を招くときに呼びやすいのは、

「そのトラブルを見ていた子」

です。

 

客観的に事実を話してもらい、話を整理します。(もし利害関係があるようなら(一方の肩をもつような子)、そうならないように気を付けなければいけません。)

 

 

 

また、

「当事者が一目置いている子」

に入ってもらうのも有効です。

 

「どこに問題があると思う?」

と問い、

「さすがに殴るのはやりすぎ」

「そこまで言ったら怒るってちゃんと考えてほしかった」

と語ってもらいます。一目置いている子からそう言われると、

「そりゃそうだ」

と思えます。片方の立場に有利にならないように、呼ぶならそれぞれに「味方にになってくれそうな人」を連れてきてもらったり名前を教えてもらって教師が呼んできたりするといいかもしれません。

 

 

 

こうしたトラブルの中で見えてくる着地点は、

「気持ちはわかるけどやり方が間違ってる」

ということが多いと思っています。

 

「気持ちはわかる」に至るまでにはやはり「共感」を大切にしながら、

 

「こういうこと言われてすごく怒ったの」

「そうか、それで怒ったんだね」

 

「だって蹴られたからムカついたんだもん」

「そっか、蹴られたからムカついたんだね」

 

とオウム返しの手法を使いながら受容し、「黒板さばき」に位置付けていきます。

 

そうして共感の輪を広げていきながら、最後には子どもたちに

「〇〇さんはこの発言で怒って手を出してしまったようです」

「〇〇さんはこのことが我慢できないくらい悔しかったみたいです」

 

と整理します。そのあと、

 

「ここについてどう思いますか」

「その傷つけてしまったことについて、相手に言いたいことはありますか」

「相手にはどうしてもらいたいですか」

などと様子を見ながら問うていきます。

 

 

こうした中で第三者に開くやり方としては、

「『こういうところ、分かる』というのはどこですか」

「『自分でも我慢できないな』って思うところ、ある?」

と問いながら、共感を促します。

 

 

 

三者を取り入れる解決方法は、共感を通して閉じた関係性を開く有効な手段です。

教師の上から目線の言葉をやめ、ファシリテートに徹することで、子どもたち目線に立ち、子どもたちを活躍させながらトラブルを解決できるようになります。

 

 

そして、

「あなたの言葉のおかげで解決したよ、ありがとう」

と協力してくれたことを認め、次トラブルが起きたときに整理役として立ち上がるための種をまくことができます。

 

 

 

教師が上から目線で断罪するのではなく、子どもに判断してもらう

 

「謝りなさい!」「反省しなさい!」

「握手して仲直り」

「もう関わらないほうがいい」

 

教師が捉えている問題の解決の方法の中でも、これらはかなり表面的であるばかりか、子どもたちの声を無視し、関係性を壊す側面もあると心得ないといけません。

もちろん「謝る、謝ってもらう」ことは人間関係を作り直すことにつながりますが、それさえやっておけばいいという短絡的なものではないと思います。

 

ここまで子どもたちの声を受容する中で子どもたちに寄りそうこと、子どもたちの共感の輪を広げていくことを書いてきましたが、最後に解決の道を子どもにゆだねることについて考えていきます。

 

前述のとおり、トラブルの着地点は、

「気持ちはわかるけどやり方が間違ってる」

ということが多いと思っています。

それは子どもたちもわかっています。わかりきっているんです。

 

だからこそ「くどくどと正論を振りかざし、大人という強い立場から断罪される」というのが「ウザイ」んです。

 

 

 

そこで、第三者にどうしたらいいかを聞いてみます。選択肢としては3つです。

①こんなことでケンカしてても仕方がないくらいくだらないので「忘れてください」

②どっちもどっち、お互い様です。謝るほどではないけれど、「気を付けてください」

③これは相手を傷つけました。「謝ってください」

※片方に謝ってもらうときもあれば、両者ともに謝ってもらうときもあります。

 

 

 

「共感し、解決の道を探る」という営みを徐々に子どもたちに手渡していくことで、教師が行動選択のものさしになることなく、子どもたちで解決していこうとする関係性をつくることができます。もちろん数回では難しいです。積み重ねが必要です。

 

 

尊敬する先生からトラブルの解決方法を教えてもらった時、目からうろこが落ちたのと同時に、「そんなこと自分にできるのか?余裕あるのか?」とも思いました。

ただ、できる範囲でできるところから始めた結果、子どもたちがだんだんと相手の話を聞くようになり、自分たちで解決しようとする姿を見ることができました。

「黒板さばき」を小学校1年生が勝手にやるんです。びっくりしますよ。

 

 

 

 

トラブルの解決をも学びの場として捉え、子どもたちの関係性づくりに見通しをもっていきましょう。

まずはできるところから。

「黒板さばき」、おもしろいですよ。

 

 

 

 

「共感性が乏しい子」、あなたのクラスにいませんか

学習会ってやっぱりいいな

 

 

先日学習会で小学校1年生の実践分析をしました。

 

片道1時間、しかも最後の1kmは毎回必ず渋滞に巻き込まれるのですが、自分の歪みや曲がりを認識して修正するために、よほどのことがない限り参加したいと思える場です。ジムに通ってヨガやピラティスをする感覚と似ています。

 

 

 

お世話になっている先生の話を聞くと、話していく中で

 

「やべ、さっきの視点はちょっとよくなかったな、恥ずかしい」

「うっわ、その発想はなかったわ、今度試してみようかな」

「やっぱりこの方針でよかったんだ、もう少し続けてみよう」

 

といった自分の中で「気づき」が、たくさん生まれます。

 

 

 

また、

 

「あの人はこういうことで困っているのかも。代わりに質問しておこう」

「あの人だったらこういう時どうするんだろう。話を振ってみようか」

 

といった参加者との対話の中で見えてくるものも多いです。

 

 

 

私も最近やっとサークルを立ち上げて学びの場にしているのですが、フレッシュな学習会にはフレッシュな魅力が、熟した学習会には熟した魅力がありますね。

 

 

 

 

さて、今回の実践者のレポートは、前回拝見した時よりも子どもを見る「視点」がかなり豊かになったのが印象的でした。

 

・物知りで、同年代の子に比べて知的好奇心も高い

・一方で手先は不器用で、絵や粘土などの表現が苦手

・注意や批判に弱く、気に入らないことがあると固まってしまう

・友だちとうまくつながれず、自分から誘う・入れてもらうことはない(入れてと言ってくる子はいるみたい)

・うるさい環境が苦手で、そのざわざわを断ち切るために奇声を発するときがある

・「つまんない~」と言ってやらないことがある(特にひらがなの練習。そりゃできるんだからつまらないよね)

 

こうした実態を蓄積してきた実践者は、確実に見る目が養われていました。

 

「そっか、〇〇だったんだね」

とその子の声を受容し、

 

「疲れているんじゃないかな。みんなも疲れるよね、勉強は」

「みんなもがんばってるの知ってるから、あとで一緒に遊ぼうね」

と周りの子のフォローも欠かしません。

 

そうした実態分析と温かい指導が、その子にとっても、その子の保護者にとっても、

「ぼくの(うちの子の)居場所づくりを進めてくれそうだ」 

という安心感と期待感につながっていくと思います。

 

 

 

現象を現象としてとらえず、本質を見る目が必要

 

 

ここで考えたいのは、そうした現状を一つ一つなくしたり潰したりすることではなく、それらを総合的にとらえ、そうした現状なのはなぜなのかを問う必要があるということです。

 

 

学習会では大きく分けて、

・自分を表現しないのはなぜか

・友だちと関わらない(関われない)のはなぜか

・注意や批判に弱いのはなぜか

・本当はできるのに、あえて適当にやるのはなぜか

といった問いにまとめられました。

 

 

現状を聞いていく中で、その子が発達に課題をもっていることは明らかですし、そういった凸凹のある子に対しての支援の在り方は、やはりその子に合った手立てを精選して小さな成功体験(スモールステップ)を積み重ねていくことに尽きるでしょう。

 

私たちが見ていくべきは、そういった個にコミットしていくことだけでなく(大事ですが)、その子の現状の背景を読み開きながら、集団と関わる中で生き直し(出会い直し・やり直し・立ち上がりなどと言い換えることもできます)を図っていくことです。

 

 

問いを通して分析をしていく中で尊敬するベテランの先生から出されたのは、

 

「共感性が乏しいのではないか」

 

という意見でした。

 

 

「共感性が乏しい子」ってどんな子?

 

「共感性」と一口に言っても、それはどんなものなのでしょう。

 

「自分がされて嫌なことはしないで」

という指導をしたことがある先生は多いと思います。私もやります。

 

そうしたことはある意味

「自分がされて嫌なこと(=相手もされて嫌なことだろうと想像できる)はしない」

という隠れた前提があります。

 

「共感性が乏しい子」はその「隠れた前提」がそっくりそのまま抜けてしまい、「自分が嫌=相手も嫌」といった考え方ができません。

 

 

また、親切な行動をしていても、実は相手のためではなく自分のためであることが多いです。

 

「これをしたら、ぼく、えらい?」「ぼく、やさしい?」

という目でこちらを見ながら(ものを手渡した子のほうは全然見ていない)、親切な行いをします。

 

実践レポートに出てきた「その子」も、行為行動にそうした側面があり、実践者は「そうかも!」と目からうろこだったようです。(私も)

 

 

 

 

 

「共感性」を生むには?

 

友だちの

「うれしい」「悲しい」「びっくり」「怒り」「喜び」・・・

といった感情を想像する視点は、その子一人の努力では培われませんし、教師が

「こういう時はこうするの」「こういう時はこんな気持ちになるよ」

と知識として教えていくものでもありません。

 

ここで教師はその子と別の子をつなぎ、感情を代弁・通訳することが必要になります。

 

 

子どもがよい行いをしたとき、教師は

「えらいね」「やさしいね」「すごいね」

と価値づけをし、

 

悪いことをしたときは

「それはダメなことです」

と指導をすることが多いです。

 

 

しかし、そうした指導だけだと、「共感性が乏しい子」にとっての行動の価値判断の基準は「自分の行為行動が教師に認められるか、認められないか」になってしまい、自分の中に他者を宿すことにつながりません。

 

 

 

そこで私たち教師が意識するのは、「行為行動を他者と共有し、第三者に開く」という視点です。

 

まずは私たちが事象の裏に隠れる背景を読み解こうとすることです。

 

 

「メンタライズ」「共感的妥当化」というそうですが、ここで考えたいのは、教師がすべてを引き取って価値づけてしまうのではなく、当事者同士、さらには第三者の子どもたちとその読み開きや共感を共有していくことが大切だということです。

 

「共感性」の育成のためにどのように開くかということを、この後書いてみたいと思います。

 

 1.教師が気持ちを想像し、代弁する形で開く

「〇〇さんはうれしかったと思うよ」

「〇〇さんは悲しかったと思うよ」

という形で、教師が想像した友だちの感情の代弁を介して自分の行為行動の価値を認識します。

 

2.子どもの気持ちを教師が聞き出し、代わりに伝える形で開く

「〇〇さんが君のおかげで楽しかったって言ってたよ」

「〇〇さんはつらい気持ちになったって言ってたよ」

という形で、友だちの言葉の教師の伝聞を通して自分の行為行動の価値を認識します。

友だちに「さっきのあれ、どんな気持ちだった?」という対話を挟む必要がありますが、他者を宿すことについてはよりレベルが上がります。

 

3.気持ちを本人に語ってもらう形で開く

「さっきのあれ、助かったよ」

「あんなことされて、すごく悲しかったの」

という形で、友だちの生の声を通して自分の行為行動の価値を認識します。

対話をファシリテートしながら、その子と友だちをつなぎます。

こうした「子どもと子どもが直接つながる機会」を大切にし、互いの思いを伝えあう機会は意識的に作っていかないといけないと思います。

 

時間がない、余裕がない、他の大ぜいを放っておけないといった声もよ~く分かりますが、こうした機会を大切にすることが共感性を育てることにつながります。

トラブルの時の対話については、また改めて書きたいと思います。

 

 

 

 

教師の一本釣りでは目の行き届かない子が出ると思いませんか?

 

実践レポートでは、入学時から課題が見えたその子一人の対応に注力していった結果、床に寝転がり、担任に甘え、他者(大人も子どもも)に暴言を吐く子が新たに生まれました。

 

それは単にその子がもともと「荒れの傾向があった」ということではなく、担任がそれほどまでに一人に真剣に向き合った結果、「ぼくも・わたしも」という形で表出した行動です。様々な学校文化からのはみ出しを許され、何かあればその子のために大好きな先生が飛んでいくのですから、うらやましく思うのは不思議なことではありません。

 

二次的な「荒れ」から指導が立ち行かなくなる事態は避けたいのですが、教師の一本釣りで困っている子に対して適切な手立てを取り続けるのには無理があります。

 

全ての子どもを満足させられるほど私たちは万能ではありませんし、私のような小規模校の教師ですら、全ての子どもとゆっくりじっくり関わることは難しいです。

 

だからこそ、私たちは「個」の関わりにばかり注力するのではなく、「集団づくり」に視点を広げていく必要があると思っています。

 

 

 

 

「私がいないとこの学級はダメなんです」「子どももそういう風に言うんです」と言う先生がいたとして、皆さんはどんな感じを受けますか。おそらくその先生は新年度が始まってから起こるトラブルを全て教師の力で解決することで、安心なクラスを作ろうとしたのでしょう。

 

6月に入り、今までのお試し期間が終わって、学級にはさらにいろいろなことが起きていくでしょう。そうした時、子どもたちが解決の方法を何ら学ばず、担任の努力と根性だけで突き進んでいったとしたら、集団としての力をつける指導をしたとはいえないと思います。

 

善い行いもトラブルも学びの場と捉え、個の指導のみに陥ることなく、子どもと子どもをつなぎながらトラブルの解決を図る過程にこそ、「共感性を高める」道は開けているのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

長々と読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

「共感性」に関わって、考えたことや気付いたことがあったら、ぜひ教えてくださいね。

 

学校現場こそ学びの場だよなあとつくづく ~「シンプルな方法で学校は変わる」を読んで~

久しぶりの投稿になりました。

やっぱり考えをまとめたり話を組み立てたりするのって訓練がいりますね。

朝ランと同様、続けるのは難しいですが、1回のハードルを下げながら、徐々に続けていけるようにしたいと思います。

 

 

 

今回は、

吉田新一郎 岩瀬直樹 著

シンプルな方法で学校は変わる

自分たちに合ったやり方を見つけて学校に変化を起こそう

 

を読んで考えたことを書いていきます。

 

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https://www.amazon.co.jp/シンプルな方法で学校は変わる-自分たちに合ったやり方を見つけて学校に変化を起こそう-吉田新一郎/dp/4840307407

 

 

 

 

大人の学びを変える ~満足度の高い、密度の濃い研修は職場でもできる~

 

みなさんは校内での研修や出張での研修は楽しいですか。満足感はありますか。

 

 

・研究授業のあら探しとその指摘に終始する冷たい研究協議でゲンナリ

・グループ討論を経て、全体発表はあるのにそのフィードバックや全体討論がなく、指導助言と称して授業者の実践勘や参加者の生の声は無視した自己満足の助言者の話にシラケる

・研究授業の準備のウエイトが重すぎて日ごろの授業準備がおろそかに

・つらい思いをして準備し、授業をやり切ったのに参会者のレスポンスが少なくてしんみり

・ツマラン

 

 

 

そうした研修がより学びになるものにするために岩瀬先生が考える「ワークショップ」や「大切な友だち」といった実践は、「どんな内容を学ぶか」というよりも「どのようにして学ぶか」に視点を置いたものであると言えます。

 

 

「より多くの人と関わり、意見をもらう」

「マイナス面の指摘よりも、プラス面のフィードバック・改善のための質問を通して気づきの促しを図る」

「教師間のふり返りの活用の仕方を工夫することで、次へつなげる」

 

 

私が研修を進めるときに意識しているのは、

「グループ→全体の二重討論を基本とすること」

「出された考えは見える化(付箋による熟議・グループでの話し合いの画用紙まとめ・黒板やホワイトボードの書記)し、話し合いに建設的な流れをつくること」

の2つでしたが、時間でメンバーを変えてより多くの人と意見を比較することや、感想ではなく授業者へのラブレター方式で前向きなフィードバックをすることは非常に有効だと思いました。

 

 

無理のない範囲での改善を通して、大人の学びの質はかなり改善するだろうと思いました。この本を読んで、うちの学校では自由度の高い実践とそのレポート(A4サイズ1枚程度)に取り組むことになりました。(というか、私が「簡単ですよ~」と言って了承してもらいました笑)

 

ただ、最初は渋る人もいます。

「レポートは負担」

「自由度が高すぎて何をやったらいいかわからない」

 

そういった声に応えるためにも、率先してレポートは仕上げ(ハードルを下げるためにも簡単に)、例を示しながら、計画的に、したたかに学ぶ土台を固めていく必要はあると思います。

 

 

 

子どもたちの学びを変える ~異年齢・異学年の学びをひらく~

 

小規模校である私の学校では、異学年交流にも力を入れています(というか、入れざるを得ないとも言えます)。今年からその流れは活発化しており、縦割り班でのそうじ(週3回)・縦割り班での運動(週1回)・縦割り班での給食(月1回)に加え、今年から全校学活・全校道徳も不定期開催されるようになりました。

 

 

習熟度別の少人数指導(算数に多い)が子どもから学び合いとやる気を奪っているケースを何件も見てきましたが、「教え、教えられる」という関係を、「教師と子ども」に閉じるのではなく、「子どもと子ども」に開いていくことの豊かさを、小規模校に来て今ひしひしと感じています。

 

 

競争原理ではなく、スムーズに相手意識が働きやすいという点からも、人数に依拠した活動より重視しやすいと思いました。

 

シリーズ「小規模校の強みから学びを考える」④ 小規模校を生かした取り組みって、何だろう

新年度が始まって1週間、子どもたちとの出会いは楽しめましたか?

 

私も小規模校とはいえ、子どもたちとの出会いは緊張しますし、気を遣います。

 

 

私は子どもたちがもっている意欲やエネルギーを生かしつつ、よそよそしさもうまく使いながら、子どもたちと一緒になって豊かな時間を作っていきたいと思います。

まだまだ5/200が終わっただけ。

すぐ息切れしないように、ゆっくり行きましょう。

 

 

 

 

さて、授業びらきも済んだところで、小規模校らしい取り組みってどんなものがあるのか、考えてみたいと思います。

 

 

ただ、先に言わせてください。

小規模校らしい取り組みを考えてみて、これらのことは

 

「小規模校のほうがハードルが低いだけで、やりようによっては大規模校でもできる」

 

と思いました。全ては私たちのさじ加減であり、やりようです。

 

 

 

 

 

「大規模校のほうが体験が豊か」幻想

 

小規模校ではよく

「ほかの学校でもやっている経験をさせなきゃ」

という話が出ます。

 

 

小規模校の先に待っているのは、大規模校・中規模校と中学校で一緒になる未来です。

中学校入学と同時に、今まで一緒だった友達と同じクラスになることはごく稀になり、知らない同級生の中で人間関係をつくっていかなければなりません。

 

 

ただ、それってそんなに憂慮すべきことですかね?

 

 

大規模校でだって密に関わってきた友達は一握りでしょうし、同じ学校だからって全員と仲がいいわけではなく、「知ってる」レベルの人のほうが多いと思います。

 

 

大規模校の経験のほうが豊かである

 

などというのは小規模校の教師の勝手な思い込みなのではないかと思います。

 

 

 

大規模校に寄せる取り組みばかりでなく、小規模校だからこそできる取り組みを積み重ねることで、十分に豊かな学びを実現できるのではないでしょうか。

 

 

 

 

大規模校では到底なしえない経験を、小規模校の強みを使って実現させる

 

さて、以前ブログにも書きましたが、私は小規模校の強みは

 

①子どもを見取る目が行き届く

②子どもの体験の密度が濃い

 

の2点にあると考えています。

 

 

 

その中でも、今日は子どもたちの体験活動に軸足を置いて話をしてみたいと思います。

 

 

 

 体験学習のフットワークが軽い!

 

人数が少ないので、動きは取りやすいです。

 

 

路線バスに乗っての社会科見学や、総合的な学習での川遊びがすぐにできます。

人数的な制約はほぼないと言えるでしょう。

 

また、町探検などのフィールドワークには何回も行けます。

大規模校ならPTAに引率を協力してもらって、班でフィールドワークを行うところですが、職員が2人いれば十分にフィールドワークができます。

 

理科の実験の様子や体育の作戦会議の様子など、グループの見取りもすぐにできます。

見取りについてはまた今度。

 

 

 

外部講師との関わりの密度の保証

 

私の学校では伝統芸能を総合的な学習の一環でやる機会があります。

上級生がすでにしっかりと踊ることができ、下級生にお手本を見せられるほど文化として根付いていればいいのですが、うちの学校は今年が初めての取り組み。

誰も踊ることができません。一からのスタートでした。

 

そこでゲストティーチャーとして招かれた保存会のみなさんにお手本を見せていただきながらやるのですが、20数名の子どもたちに対して毎回5~6人の保存会の方が来てくださいました。(多いときはもっと!)

 

お手本を見せる人が少なくても、子どもたちは近くでお手本を見ることができ、質問もその都度することができます。わかりやすく教えてくれるので、子どもたちも自然と前向きに練習に取り組んでいました。

(まあ、手取り足取り教えてもらえる環境だと、サボれませんもんね。)

 

 

 

また、国語や社会の調べ学習で地域の方にインタビューをするときには、テーマに応じたグループ編成をし、それらに応じて地域の方に入ってもらうようにしたところ、「質疑応答」だけでなく「まとめのポスター作り」にまで地域の方に入っていただけました。

わかりやすく教えてくれたこと、自分が興味をもったテーマの内容の質問に真剣に答えてくれたことがうれしかった様子でした。

 

 

何クラスもある大規模校で同じような状況を作り出すためには、ゲストティーチャーの頭数を増やす必要があります。お忙しい中都合をつけてくれる人がたくさんいればいいのですが、そんなに簡単にはいきません。

 

小規模校は外部との連携の密度が濃いと言えると思います。

 

 

異学年交流のハードルが低い!

 

 

みなさんの学校には、縦割り班活動がありますか。

1年生から6年生までが一緒のグループを作り、遊んだり活動したりする活動のことです。 

 

縦割り班活動のいいところは異なる学年が一緒に関われることですが、同時にリーダーの6年生に負担がかかりやすい側面もあります。子どもらしく、やんちゃな子が低学年にいると、上級生がお世話役をしなければならず、楽しめないことがあるからです。そういう困ったことを何でも6年生に任せず、「ミドルリーダー」として中学年を位置づけながら、いろんな関わり方ができる縦割り班活動が6年生にとってもストレスフリーです。

 

さて、ちょっと横道にそれましたが、そんな縦割り班に限らず、少人数だからこそできる異学年交流があります。

 

人数が少ないと、時間と場所の制約を受けにくいので、朝の会で違う学年と一緒に歌を歌ったり、よその学年の発表を10分だけ聞きに行ったりすることができます。

 

 

 

まとめ 柔軟でアクティブな教育ができる場、それが小規模校

 

より柔軟に、よりアクティブに活動を組み立てられるのが、小規模校の魅力なのかもしれません。

柔軟で、アクティブな教育活動を打ち出していく教師の背中を見ている子は必ずいます。

 

現在話し合い真っ最中の学級スローガンのグループ討論では、私の思いもよらないアイデアが出てきてうれしくなりました。

今日決定し、週末の授業参観までには形にしたいと思いますが、子どもたちが柔軟でアクティブだと、学校がより楽しくなります。

それが「主体的」であり、「公民的資質」とか「民主的な人づくり」なのかもしれませんね。

 

 

 

3行まとめ

小規模校では豊かな体験活動を保証することができる

外部講師や他の学年も巻き込みながら、いろんな立場の人と関わろう

柔軟でアクティブなことができる環境が小規模校にはある

 

 

だんだんと小規模校シリーズを超えたことも書いてみたくなってきました。

今日も一日、子どもの笑顔を見守りましょう!