たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

「共感性が乏しい子」、あなたのクラスにいませんか

学習会ってやっぱりいいな

 

 

先日学習会で小学校1年生の実践分析をしました。

 

片道1時間、しかも最後の1kmは毎回必ず渋滞に巻き込まれるのですが、自分の歪みや曲がりを認識して修正するために、よほどのことがない限り参加したいと思える場です。ジムに通ってヨガやピラティスをする感覚と似ています。

 

 

 

お世話になっている先生の話を聞くと、話していく中で

 

「やべ、さっきの視点はちょっとよくなかったな、恥ずかしい」

「うっわ、その発想はなかったわ、今度試してみようかな」

「やっぱりこの方針でよかったんだ、もう少し続けてみよう」

 

といった自分の中で「気づき」が、たくさん生まれます。

 

 

 

また、

 

「あの人はこういうことで困っているのかも。代わりに質問しておこう」

「あの人だったらこういう時どうするんだろう。話を振ってみようか」

 

といった参加者との対話の中で見えてくるものも多いです。

 

 

 

私も最近やっとサークルを立ち上げて学びの場にしているのですが、フレッシュな学習会にはフレッシュな魅力が、熟した学習会には熟した魅力がありますね。

 

 

 

 

さて、今回の実践者のレポートは、前回拝見した時よりも子どもを見る「視点」がかなり豊かになったのが印象的でした。

 

・物知りで、同年代の子に比べて知的好奇心も高い

・一方で手先は不器用で、絵や粘土などの表現が苦手

・注意や批判に弱く、気に入らないことがあると固まってしまう

・友だちとうまくつながれず、自分から誘う・入れてもらうことはない(入れてと言ってくる子はいるみたい)

・うるさい環境が苦手で、そのざわざわを断ち切るために奇声を発するときがある

・「つまんない~」と言ってやらないことがある(特にひらがなの練習。そりゃできるんだからつまらないよね)

 

こうした実態を蓄積してきた実践者は、確実に見る目が養われていました。

 

「そっか、〇〇だったんだね」

とその子の声を受容し、

 

「疲れているんじゃないかな。みんなも疲れるよね、勉強は」

「みんなもがんばってるの知ってるから、あとで一緒に遊ぼうね」

と周りの子のフォローも欠かしません。

 

そうした実態分析と温かい指導が、その子にとっても、その子の保護者にとっても、

「ぼくの(うちの子の)居場所づくりを進めてくれそうだ」 

という安心感と期待感につながっていくと思います。

 

 

 

現象を現象としてとらえず、本質を見る目が必要

 

 

ここで考えたいのは、そうした現状を一つ一つなくしたり潰したりすることではなく、それらを総合的にとらえ、そうした現状なのはなぜなのかを問う必要があるということです。

 

 

学習会では大きく分けて、

・自分を表現しないのはなぜか

・友だちと関わらない(関われない)のはなぜか

・注意や批判に弱いのはなぜか

・本当はできるのに、あえて適当にやるのはなぜか

といった問いにまとめられました。

 

 

現状を聞いていく中で、その子が発達に課題をもっていることは明らかですし、そういった凸凹のある子に対しての支援の在り方は、やはりその子に合った手立てを精選して小さな成功体験(スモールステップ)を積み重ねていくことに尽きるでしょう。

 

私たちが見ていくべきは、そういった個にコミットしていくことだけでなく(大事ですが)、その子の現状の背景を読み開きながら、集団と関わる中で生き直し(出会い直し・やり直し・立ち上がりなどと言い換えることもできます)を図っていくことです。

 

 

問いを通して分析をしていく中で尊敬するベテランの先生から出されたのは、

 

「共感性が乏しいのではないか」

 

という意見でした。

 

 

「共感性が乏しい子」ってどんな子?

 

「共感性」と一口に言っても、それはどんなものなのでしょう。

 

「自分がされて嫌なことはしないで」

という指導をしたことがある先生は多いと思います。私もやります。

 

そうしたことはある意味

「自分がされて嫌なこと(=相手もされて嫌なことだろうと想像できる)はしない」

という隠れた前提があります。

 

「共感性が乏しい子」はその「隠れた前提」がそっくりそのまま抜けてしまい、「自分が嫌=相手も嫌」といった考え方ができません。

 

 

また、親切な行動をしていても、実は相手のためではなく自分のためであることが多いです。

 

「これをしたら、ぼく、えらい?」「ぼく、やさしい?」

という目でこちらを見ながら(ものを手渡した子のほうは全然見ていない)、親切な行いをします。

 

実践レポートに出てきた「その子」も、行為行動にそうした側面があり、実践者は「そうかも!」と目からうろこだったようです。(私も)

 

 

 

 

 

「共感性」を生むには?

 

友だちの

「うれしい」「悲しい」「びっくり」「怒り」「喜び」・・・

といった感情を想像する視点は、その子一人の努力では培われませんし、教師が

「こういう時はこうするの」「こういう時はこんな気持ちになるよ」

と知識として教えていくものでもありません。

 

ここで教師はその子と別の子をつなぎ、感情を代弁・通訳することが必要になります。

 

 

子どもがよい行いをしたとき、教師は

「えらいね」「やさしいね」「すごいね」

と価値づけをし、

 

悪いことをしたときは

「それはダメなことです」

と指導をすることが多いです。

 

 

しかし、そうした指導だけだと、「共感性が乏しい子」にとっての行動の価値判断の基準は「自分の行為行動が教師に認められるか、認められないか」になってしまい、自分の中に他者を宿すことにつながりません。

 

 

 

そこで私たち教師が意識するのは、「行為行動を他者と共有し、第三者に開く」という視点です。

 

まずは私たちが事象の裏に隠れる背景を読み解こうとすることです。

 

 

「メンタライズ」「共感的妥当化」というそうですが、ここで考えたいのは、教師がすべてを引き取って価値づけてしまうのではなく、当事者同士、さらには第三者の子どもたちとその読み開きや共感を共有していくことが大切だということです。

 

「共感性」の育成のためにどのように開くかということを、この後書いてみたいと思います。

 

 1.教師が気持ちを想像し、代弁する形で開く

「〇〇さんはうれしかったと思うよ」

「〇〇さんは悲しかったと思うよ」

という形で、教師が想像した友だちの感情の代弁を介して自分の行為行動の価値を認識します。

 

2.子どもの気持ちを教師が聞き出し、代わりに伝える形で開く

「〇〇さんが君のおかげで楽しかったって言ってたよ」

「〇〇さんはつらい気持ちになったって言ってたよ」

という形で、友だちの言葉の教師の伝聞を通して自分の行為行動の価値を認識します。

友だちに「さっきのあれ、どんな気持ちだった?」という対話を挟む必要がありますが、他者を宿すことについてはよりレベルが上がります。

 

3.気持ちを本人に語ってもらう形で開く

「さっきのあれ、助かったよ」

「あんなことされて、すごく悲しかったの」

という形で、友だちの生の声を通して自分の行為行動の価値を認識します。

対話をファシリテートしながら、その子と友だちをつなぎます。

こうした「子どもと子どもが直接つながる機会」を大切にし、互いの思いを伝えあう機会は意識的に作っていかないといけないと思います。

 

時間がない、余裕がない、他の大ぜいを放っておけないといった声もよ~く分かりますが、こうした機会を大切にすることが共感性を育てることにつながります。

トラブルの時の対話については、また改めて書きたいと思います。

 

 

 

 

教師の一本釣りでは目の行き届かない子が出ると思いませんか?

 

実践レポートでは、入学時から課題が見えたその子一人の対応に注力していった結果、床に寝転がり、担任に甘え、他者(大人も子どもも)に暴言を吐く子が新たに生まれました。

 

それは単にその子がもともと「荒れの傾向があった」ということではなく、担任がそれほどまでに一人に真剣に向き合った結果、「ぼくも・わたしも」という形で表出した行動です。様々な学校文化からのはみ出しを許され、何かあればその子のために大好きな先生が飛んでいくのですから、うらやましく思うのは不思議なことではありません。

 

二次的な「荒れ」から指導が立ち行かなくなる事態は避けたいのですが、教師の一本釣りで困っている子に対して適切な手立てを取り続けるのには無理があります。

 

全ての子どもを満足させられるほど私たちは万能ではありませんし、私のような小規模校の教師ですら、全ての子どもとゆっくりじっくり関わることは難しいです。

 

だからこそ、私たちは「個」の関わりにばかり注力するのではなく、「集団づくり」に視点を広げていく必要があると思っています。

 

 

 

 

「私がいないとこの学級はダメなんです」「子どももそういう風に言うんです」と言う先生がいたとして、皆さんはどんな感じを受けますか。おそらくその先生は新年度が始まってから起こるトラブルを全て教師の力で解決することで、安心なクラスを作ろうとしたのでしょう。

 

6月に入り、今までのお試し期間が終わって、学級にはさらにいろいろなことが起きていくでしょう。そうした時、子どもたちが解決の方法を何ら学ばず、担任の努力と根性だけで突き進んでいったとしたら、集団としての力をつける指導をしたとはいえないと思います。

 

善い行いもトラブルも学びの場と捉え、個の指導のみに陥ることなく、子どもと子どもをつなぎながらトラブルの解決を図る過程にこそ、「共感性を高める」道は開けているのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

長々と読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

「共感性」に関わって、考えたことや気付いたことがあったら、ぜひ教えてくださいね。