たくや先生の小規模校×集団づくりブログ

全校児童50人にも満たない小さな小学校に勤務しています。小規模校の良さや課題、おもしろさを通して、小学校の豊かな学びを考えていきます。

道徳の「心情メーター」(ハートメーター・心のものさし・心情円盤)の使い方について考える

お久しぶりです。

夏休みが始まって、皆さんいかがお過ごしですか。

 

夏休みの予定にうきうきしている人も多いと思います。

私は今週末に迫ったwatcha合宿に参加するのが楽しみです。

きっとおもしろい先生方がたくさん集結するでしょうから笑

 

さて、今回は道徳の心情メーターについて考えてみたいと思います。

 

 

 

最近の道徳の教科化を受けて

 

道徳が「特別の教科 道徳」になって久しいですね。

「内面や行動を評価するのではなく、学びの過程を評価する」というのも難しいですし、学期ごとに評価するのか、学年末に評価するのかというのも地域によって様々です。

 

内容項目をきちんと網羅する必要がありますが、「教科書を必ず使わなければいけないというわけではない」というのが他の教科とは違うところかと思います。

(学校によっては教科書を必ず網羅し、35の教材を全て扱えというところもあるようです)

 

私もTwitter界隈の先生方に倣って絵本を道徳に活用したり、教科書の教材文をさらさらと流し、それをきっかけに写真で授業したりと、自由な手立ての中で子どもたちにいろいろと語ってもらうことを念頭に授業を展開しています。

 

その中で私が一番に考えるのは、

「道徳で傷つく子がいないか」

ということです。

 

内面を評価するわけではない

とお上は口をそろえますが、影響があるのではないかというのが私の見解です。

だからこそ、私自身の矮小な価値観を子どもたちに植え付けたり、「空気読め」「これが普通」と違いを受け入れず、同調圧力を強めてしまったりするような時間にはしたくありません。

 

だからこそ、道徳の実践には「デリケートな部分がある」と思っています。

 

 

 

道徳指導の研究会で必ず出てくる授業改善3つ ~役割演技・アンケート・心情メーター~

 

さて、道徳の研究授業を見たり、授業研究会に出たことのある先生も少なくないと思いますが、これら3つを盲目的に話題にあげる先生はいませんでしたか。

 

国語のような「読み取り」とは違うものの、登場人物が出てきてある程度内面に変化があるとすれば、その登場人物に自分を重ねて考えることは当事者意識の醸成や共感の疑似体験につながります。様々な立場に立って考えるという「多面的・多角的な見方への発展」にも合致するでしょう。

 

また、「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めていく」ためには、自分が日ごろどのような意識で生活しているか(いたか)を明らかにし、そこをきっかけにして試行していくこともうなずけます。

 

そして、「主体的・対話的な学び」として、学びの結果だけでなく学びの過程にまで学習指導要領の文言が踏み込んできたことを考えると、子どもたちと教師が問答をするだけの授業展開から、子ども同士が自分たちなりに対話するようにしていきたいという教師の意図も十分に分かります。

 

自分と相手の考えの違いを「見える化」することから、「なぜそう考えるのか」「考えの根拠は何か」といった対話を生み出し、相手側の意見を受容するきっかけにすることができます。

 

 

ここまで述べたように、昨今の学習指導要領の改訂や時代の流れを受けて、道徳の授業改善の中で先生たちが勉強してきたからこそ、これら3つの手立ては市民権を得、どんな年代でも取り組みうる手立てとしての地位を確立したのだと思っています。だからこそ、これらを頭ごなしに否定はできませんし、発達段階と場合によっては有効な手段になり得ます。

 

 

でも・・・

 

 

どんな手立てでもそうですが、盲目的に「これさえやっておけばいい」という思考だと、いつか錆びつくときが来ます。思考停止。

 

誤解のないように何重にも線を引いておきますが(笑)、どの手立てでも大事なのは使い方です。

 

即興的な役割演技が更なる考えの深まりを生むこともあれば、シラケた雰囲気づくりに加担している役割演技もあります。

普段の生活の問題点を明らかにし、授業の冒頭から子どもたちの課題意識を焦点化することに役に立つアンケートもあれば、授業内容の硬直化を招くアンケートもあります。

 

「デリケートな部分がある」からこそ、道徳の授業には気を遣います。

中でも私個人が気をつけているのは、「心情メーター」です。

 

 

心情メーターのデメリット

 

心情メーターのメリットは「見える化を通して子どもたちの対話を生み出す」ことです。

私も学級会の決定事項はできる限り「見える化」しますし、最近は引き出しの中身まで付箋で見出しをつけるようになりました(私は片付けが苦手で、子どもたちからもよく注意を受けます)。

 

見える化」の恩恵は様々なところに出ますが、その「見える化」が招くデメリットもあるということを理解して使う必要はあると思います。なぜなら、「心情メーター」で見える化しようとしているのは、子どもたちの「内面」であり「思想」だからです。

 

 

「心情メーター」が生む「同調圧力

「ブランコ乗りとピエロ」のお話をご存じですか。

サーカスのリーダーのピエロの言うことを聞かないブランコ乗りのサムが予定時間を大幅にオーバー。ピエロは文句を言おうとしますが、お客の盛り上がりと、懸命な演技の代償に真っ青な顔をして疲労困憊のサムの姿を見て、不満が溜まった団員たちを説得します。その後、ピエロとサムは仲良く・・・っていうあれです。

 

この教材の中で、「自分はピエロとサムのどちらに近いと思うか」という問いで、心情メーターを使ったらどうでしょう。私が何回か見てきた授業の中で、サム寄りの考えを心情メーターで表した子はいません。

 

「善か、悪か」「白か、黒か」といった二つに一つの立場を明らかにするための心情メーターの使い方だと、子どもたちは盛大に忖度します。

 

心のどこかでサムのような生き方がうらやましいと思っていても、個と集団であれば集団を優先してきた「学校文化」の成果が出ているとすれば、そこで選ばれるのはピエロです。

 

どんなに「道徳には答えがいくつもあるよ」「あなたの素直な考えでいいんだよ」と子どもたちに伝えていても、です。

 

分別のある子どもたちは、出る杭になることを避けます。

考えが違うと、先生や友達から何か言われることが体験的にわかるのです。

 

 

 

 「心情メーター」を使うと、一方が大きくなると一方が小さくなる。それは本当か?

「青の洞門」というお話があります。

罪人の了海が罪滅ぼしのために岩山を人力でくり抜こうとすること二十余年、敵討ちに来た実之助が了海の姿を見て敵討ちをやめて一緒に洞門を掘り進め、見事悲願を成し遂げる。最後に了海は自分を斬れと覚悟を決めるが、実之助は「まことに、よくやりとげましたなあ」と涙ながらに了海の手を取り・・・というあれです。

 

この実之助の敵討ちの気持ちについて「心情メーター」を使うと、「敵討ちをしない」側に片寄ります。

6年生ともなれば、

「事情があれば人殺しを認めるという思想をもつ子として見られるのではないか」

ということを考えるくらいには子どもたちも賢いです。

 

さて、私がここで言いたいのは心情メーターの使い方というよりは心情メーターの構造上の弱点のことです。

 

心情メーターの形にもいろいろあり、円に切り込みを入れて円グラフのようになるものや、水色とピンクの帯が窓から見える帯グラフのようなもの、マグネットで自分の立ち位置を示すものと様々な種類があります。それらに共通するのは、

 

どちらかが増えれば、もう一方は減る

 

ということです。

 

敵討ちをしようと二十余年了海を探し続けた実之助の恨み・執念が、シュ~~と小さくなっていくでしょうか。それに対応するように手伝う気持ちがムクムクと大きくなるでしょうか。

 

捉えるべきは、実の父を殺された恨みを晴らすことに人生を賭け、敵討ちをしなければお家取り潰しになる事情を抱えながらも、敵の仕事を手伝う実之助の葛藤です。

それが相対的に小さくなっていくのを「見える化」してしまっていいのでしょうか。

 

教材文の結末を知っている子どもたちは、自分が選んだ「心情メーター」がお話の通りにいかないことを多少なり恐れます。

 

 

対話を生むための「心情メーター」のせいで道徳の授業が弾力を失い、画一的で乾いたものにならないようにしていく必要を感じます。

 

 

終わりに

中盤にも述べたとおり、これらの手立てを使うのが悪いのではなく、使い方をきちんと考える必要があると私は考えています。

 

子どもたちの語る言葉に注意深く耳を傾け、受容と共感、安心できる居場所づくりにつながる道徳の時間になることを信じて、実践を積み重ねていきたいと思います。

 

それではまた。